ここからが本命であり本生でしょう: 25HCDに寄せて

渡辺 信二(前RSSC専攻科ゼミ担当教授)

 この3月で、RSSCのゼミ・科目担当が終了し、ぼくにとってのレギュラーの仕事が、他を含めて、全て終わりました。ありがとうございました。

 4月からは、純粋な年金生活となり、毎日が日曜日、と緊張しつつも期待したのですが、実体は、終わりのない長い夏休み、の感覚です。つまり、休みは休みなのですが、宿題がたくさんあって、日々の日課表の下、計画表を練り、宿題を一つ一つ仕上げて提出しなければならい、という緊張感があります。

 長い勤めを終えた後の人生には、「余命」という言葉がよく宛てられますが、この言葉には、有限の響きがあります。でも、その「有限」意識があるからこそ、これからを「本命」として、日々を大切に味わい、学びを続ける心が育まれるのでしょう。競馬ではありませんが、「本命」には、目指すべきゴールが、必ず、あります。

 あるいは、「余生」とも言われます。でも、決して「余りもの」ではありません。常勤・非常勤の仕事が終わる時こそ、これまでの歩みを見直す契機として捉え、これ以降、さらにより豊かな人生を送るべく努める時期です。むしろ、これからの人生を「本生」とも呼ぶべき、人生の熟してゆく季節にしなければなりません。この「本生」とは、お酒やビールの話はなくて、仏教に従えば、現世を現世たらしめるための前世での善行譚であり、もしも、輪廻を信ずるならば、来世へとつながる準備期間でもあります。人がこの世に来たり、また、去る。世の習いとはいえ、ブッダも去りました。

 個人的な話ですけれど、最近非常にショックなことに、長年かかりつけ医として頼りにしていた、近所のお医者さんが、亡くなりました。ぼくとほぼ同じ歳でしたが、よく患者の話を聞いてくれる良い方でしたけれど、くも膜下出血で、あっという間のことだったそうです。医者の無養生と言いますが、他者に己の命を捧げた人生だったのでしょう。我が身を振り返れば、果たして、じぶんは善行を十分に行なってきたのかと、自省します。

 そもそも、生命が預かりものだとすれば、いつかは、返さねばなりませんが、返すべきは、生命の源である「気」であり、返す相手は、宇宙です。身体は、自然界に戻ります。ただし、この「気」の返還時期は、人それぞれに異なります。人生100年と言われていますが、でも、大気・水・食材などの汚染をなるべく避けることができて、かつ、調和のとれた食生活・日常生活を日々に送れるなら、各部位・各器官の細胞分裂が可能な年数を考慮して、多分、120歳くらいが天寿でしょうか。これは、第2の還暦でもあります。

 東洋哲学・医学の多くは、生命を天からの授かりものと捉え、気血の巡りを養い、陰陽の調和をはかることで、天寿の全うを勧めます。病気もまた不幸ではなく、天からの声がけ・警鐘であり、これまでの人生観や生活態度を見直すきっかけとなります。病気は治せばいいというものではありません。せっかくの病気です、天寿の観点から、病気は、己を反省し、生活を見直す好機です。それに、120年は目標ではありません。天寿を生きるための一つの道標です。その途上で倒れるのなら、それもまた良し。平成の世に生きる私たちは、自然と共に歩む「無為自然」の感覚を取り戻すのは難しいでしょうが、でも、老いも病いも人生の流れの中に抱きとめて、恐れるよりも受け容れてながら勇気を持って本生を本命として生きる。

 

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編集チーム 十七期生