ウィメンズクラブ10月定例研究会報告『一粒の麦 荻野吟子の生涯』(監督山田火砂子)を鑑賞して

  10月31日(金)、新宿K’sシネマで上映中の『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を会員8名で鑑賞した。
思い返せば昨年の11月、ちょうど一年前に私たちウィメンズクラブは日本で初めての女性医師となった荻野吟子の足跡を辿り、吟子の出生地である熊谷市を訪れていた。

 「利根川は関東一の大河である・・・悠々と大河の風格を成して流れる川面に純白の帆を張った大舟がゆっくりと下っていく」と、渡辺淳一の伝記的小説『花埋み』の冒頭に記されている。
正にその光景が映画に映し出されると、一年前の利根川の風景が重なり、学問がしたいと思っていたにもかかわらず17歳で結婚させられた吟子の胸中はいかばかりであったかとため息が出そうになった。
映画の中では、「女に学問は必要ない、結婚して子どもを産むことが大切なのだ」というフレーズが何回も出てくる。ましてや女性が医者などとは到底あり得ない時代だった。
夫のせいで病気になったにもかかわらず離縁された吟子は念願の学問の道に進むが、女人禁制の男子医学校で度々嫌がらせを受けたりする中でスカッとする場面があった。
吟子は『学問のすゝめ』を引用し、教室でからかう男子学生たちに向かって、「万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく・・・人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり、とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」と堂々と啖呵を切る。あれだけ威張っていた男子学生たちが一瞬ひるむ場面だ。吟子の16歳から64歳までを演じきった女優、若村麻由美のクールで力強い部分が現れていた。
苦労に苦労を重ね医者になり湯島で「産婦人科荻野医院」を開業した吟子は本郷教会で洗礼を受けた。1890年、39歳の時に13歳年下のクリスチャン志方之善と結婚するが、志方は理想郷を求め北海道の原野開拓を目指す。吟子も後に合流するのだが、未開の地で苦労の連続、荻野医院は休業せざるを得ない。

鑑賞後の茶話会では、ここに焦点が当てられ、「何故、志方のあとを追い北海道まで行ったのか、いくら愛しているからと言っても15年ほどの東京での空白はもったいない、経済的にも志方に利用されていたのではないか、いやいや、やはり愛は強くキリスト教の理念で深く結ばれていたのではないか、艱難辛苦を乗り越えやっと医者になれた妻のことを若い夫は思いやることができなかったのだろうか、志方は自分自身の理想にばかり燃えて、道を切り拓いた吟子への思いやりに欠けているように思われてならなかった。吟子は一人の女性として若い夫とともに生きることを選択したが、後進の女性たちの未来のために生きて欲しかった・・・」等々、色々な意見が飛び交った。

ウィメンズクラブでは数年前に石井筆子を取り上げ滝乃川学園を訪れたことがあったが、その前身である弧女学園は、吟子の家(荻野医院)で始まったという。20名程の孤児(弧女)を預かり教育支援もしていた。又、キリスト教婦人矯風会にも参加していた吟子はそこで矢嶋楫子とも出会う。矢嶋楫子も又ウィメンズで取り上げた女性だった。

埼玉ゆかりの三偉人のひとりと言われる日本で初めての女医となった吟子だが、まだ知らない人が多いと山田監督は言う。離婚がなければ吟子は嫁ぎ先で妻として母としての平凡な人生を送っていたかもしれない。山田監督は70代でメガホンを執り監督となったそうだ。そして87歳の現在も日本で最高齢の女性監督として活躍され、この映画の中でも老婆役でちらっと出演されていた。「荻野吟子の映画を多くの若者にも観て欲しい、そしてこの映画を観た女性たちにはもっと強くなって欲しい」とコメントされている。

 映画のタイトル『一粒の麦』は、新約聖書にあるイエス・キリストの有名な言葉に由来する。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節)
初めての女性医師として、社会活動家として生きた吟子であったが、きっと亡き後にも、日本に多くの女性医師が生まれることを願っていたであろう。
女性医師の数は2016年度のデータでは、残念ながら先進国では最低の21.1%に留まっているらしいが、それでも若年層の割合は増加中とのことだ。「女医」という言葉がいつかなくなる世を期待すると共に、女性たちへの門戸を狭めない成熟した日本であって欲しいと強く願う。     (記:福井)

(新宿K’sシネマで11/22まで上映後各地を巡回)