ウィメンズクラブ11月定例研究会報告「平和について考える」

日 時:2019年11月14日(木曜日) 13時30分から15時30分
場 所:武蔵野市かたらいの道市民スペース 会議室
参加者:8名
講 話:「戦後74年が過ぎ、思い出すままに平和について考える」水野潔子様(広島にて被爆・91歳 )

 11月の研究会は、武蔵野市で広島原爆体験者として「語り部」をされ、武蔵野けやき会(武蔵野市原爆被害者の会)の会員として平和を守る活動を続けておられる水野潔子さんに「戦後74年が過ぎ、思い出すままに平和について考える」というテーマでお話を伺った。

      水野潔子さんの生い立ちと戦争

☆15年戦争は始まっていた
1928年福岡生まれ。父の仕事の関係で広島に移住。広島女学院幼稚園入園。日中戦争に突入し、戦争は本格化。15年戦争は既に始まっていた。1941年12月8日、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し太平洋戦争に突入した。水野さんは広島女学院高等部の1年生で、勉強よりも勤労作業の日々だった。1944年11月24日、東京武蔵野中島飛行機製作所への投下を皮切りに、地方都市にも爆弾・焼夷弾が次々と投下され、1945年3月10日の東京大空襲では、米機400機が都内に爆弾・焼夷弾を投下し10万余の方々が死亡した。1945年7月26日、米、英、ソ連の3カ国はドイツのポツダムで巨頭会議を開き、力の無くなった日本に対して無条件降伏を迫ったが、日本は受け入れず米国は戦争の終結を早めることを立前として原爆の投下に踏み切ったと言われている。
8月6日にはヒロシマに、8月9日にはナガサキに原爆が投下され、甚大な被害を受けた日本は8月15日無条件降伏を受諾し、9月2日の米艦ミズーリ号上での調印をもって、日本は正式に敗戦となった。

☆水野さんと原爆
*原爆投下により廃墟となった広島の地図(爆心地、自宅、広島女学院等)で説明
17歳で広島女学院専門学校に入学。1945年8月1日から6日まで学校で机に向かっての授業をしてもよいとのお上のお達しがあった。8月5日は夜間に空襲警報が鳴り、夜が明けたころ再び警報が鳴ったが、早朝には凡ての警報が解除されたので、人々は学校へ仕事へと出かけた。その頃、原爆を積んだB29爆撃機(エノラゲイ)が、テニアン島から6時間半かけてヒロシマ上空に近づいてきたことも誰一人として知らずにいた。8月6日朝の学校礼拝が終わった8時15分、礼拝堂の高窓辺りが「ピカーッ、バクーゥ、ドン!!」 と、もの凄い光や騒音と同時に建物は崩れ、頭上からレンガ、砂、コンクリートの塊が降ってきて殆どが生き埋めになってしまったとのこと。閉じ込められた学生たちは大騒ぎ、地獄の修羅場のような騒ぎとなり、礼拝堂の椅子の間に挟まっていた水野さんの周囲もだんだんと埋まってきたが「もし埋まってしまったら終わりだ」と思い、両手のひらを丸くして口を囲み少しでも息ができる様スペースを確保した。どの位の時間が経ったのか・・・気が付いた時には、崩れた壁に割れ目が出来て光が見えていたので、2・3人の友達とお互いに助け合って光の方に向かい、何とか外に出ることができた。クリスチャンの水野さんは、「その時の知恵と力は神様が与えてくださったのだ」と今でも思っておられるそうです。
何だか凡てがよくわからないまま外へ出て又ビックリ!女学校の鉄筋モルタルの校舎は爆弾が落ちて潰れ、近くの家々は火の手が上がっていて、ただ事ではないと感じた。皮膚が垂れ下がり、洋服は破れ、髪の毛は逆立った人が大勢道路を川に向かって歩いていた。水野さんはその列に加わり、常葉橋の川原まで行って又々ビックリ。多くの方々や兵隊さんらしき人々が上半身裸で赤く剥けた背を砂にこすり、痛さのために大勢の負傷者が唸っていて、火災が収まるまで何が起こったか解らない状況で町はすっかり廃墟と化してしまった。自分の家族と避難場所で逢うまでには数日かかったそうである。

☆大切な家族のこと  ~焼けた我が家へ~
父は崩れた二階建ての家の下敷きになって背骨を骨折したため動けなくなり12月に入ってから東京の大学病院で3ヶ月間の入院治療をし、姉と兄は大きな怪我もなく無事で、妹も学童疎開で無事家族の元に帰ってきた。しかし、母は勤労奉仕に出かけたまま行方不明だった。9月17日枕崎台風が広島を襲い、台風の豪雨で焼け跡のごみやほこりが洗い流された後に、母は道路の側溝で半腐り状態で発見された。水野さんが縫ったもんぺや下駄の鼻緒が身元発見に繋がったとのこと。その後、玄関先で家族の手で火葬を終らせ、遺骨はミルクの空き缶に入れ、後日、この遺骨を東京に持帰り、教会で葬儀をした。水野さんは、被爆の後、下痢と下血が1ヶ月以上続いたので、上京して大学病院で診察を受けたところ、白血球値は3000/μL、被爆直後は1000に落ちていたであろうと医師の診断で、その後、被爆者申請をした。「被爆者健康手帳」には爆心地から1kmで被爆と記載されている。「被爆者健康手帳」は自ら申請するものであるが、女性は結婚に、男性は就職に障害がある為と申請をしない人も大勢いたようである。

☆看護婦の道へ、そして現在
水野さんが17歳の頃は、女性は専門学校までで大学に入学出来る制度はなかったが、丁度東京看護教育模範学院(後の聖路加看護大学、現在は聖路加国際大学)がGHQの命により設立されたので、看護婦になることを目指し、受験、無事入学され、保健師・助産師・看護師の有資格者として定年を迎えるまで有職婦人として仕事を続けられた。
40余年前に、埼玉県東松山市にある「丸木美術館 原爆の図」を鑑賞したことを機会に広島原爆体験者として、悲惨な戦争が二度と起こらないようにと、被爆体験の「語り部」を始められた水野さん。武蔵野市では11月24日を忘れない為に「平和記念日」と定めているが、91歳になられる今も平和を守る活動を続けておられ、武蔵野けやき会での語り部活動も50回を超えた。また、20余年前からは青梅市内にあるキリスト教の元伝道師のための施設訪問と、お茶会のボランティアもなさっている。

☆まとめ
私達は、水野さんから被爆体験者として生きて来られた足跡と思いを直接伺う機会を得、戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを改めて学びました。大勢の市民が巻き込まれた原爆投下後の地獄のような当時の状況を水野さんの体験から知り、広島で起こったこの事実を絶対に忘れないこと、毎年、繰り返し思い出すことが私達の務めだと気付かされた講話でした。聖路加看護大学の同窓で、ご友人の弓削延子さんも参加され、物静かな水野さんのご家族への秘めた思いなどのご紹介もありました。最後に参加者一人ひとりに講話の感想や質問等を受けて頂き有意義な定例会になりました。私は水野さんが生きてきた道に女性の強さを感じました。 <担当:鈴木とし子>

☆推薦図書等
1図録 広島平和記念資料室『ヒロシマを世界に』(財)広島平和文化センター
2『絵で読む広島の原爆』 福音館書店 かがくのほん(小学生上級~大人まで)
3『聖路加と公衆衛生看護』聖路加国際大学 学術情報センター 大学史編纂・資料室 編

4『核なき世界を追い求めて 光に向かって這っていけ』 岩波書店 サーロー節子・ 金崎 由美著
5https://www.youtube.com/watch?v=qE-AcmAKmP4 被爆者の声 水野潔子さん(1)(2)

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