11月定例研究会「道なき道を拓いた日本の女性科学者たちの100年」
東京理科大近代科学資料館「科学のマドンナ」プロジェクト10年記念特別企画展から

活動日 2017年11月10日(金) 13時半~16時
場所  MFビル集会室
出席者 7名(他に感想文参加1名)

今回は、女性が科学を学び職業にすることを認めなかった社会にあって、高い志を持ち科学者を目指して立派な業績をあげた女性たちの内の5人を取り上げその足跡を辿ってみた。

【女性科学者の第一世代】
この世代を代表するのが、明治6年生まれの丹下ウメ、明治13年生まれの保井コノ、明治17年生まれの黒田チカである。3人とも数学や理科の好きな成績優秀な子どもだったが、当時の女子の高等教育は全国各地にあった師範学校女子部止まり、卒業後は小学校教員になるしかなかった。それでも保井コノ、黒田チカには東京女子高等師範(女高師)に進む道が開け、続いて研究科も設置された。丹下ウメは明治34年、28歳で日本女子大学校の1期生として入学。東大と兼務していた長井長義(化学)教授の指導を受け、その後助手となった。
1913年(大正2年)には東北帝国大学が、丹下ウメ(40歳)、黒田チカ(29歳)、牧田らくの3名の女子入学を認めた。が反対者が多く体制も整ってはいなかった上、一大事件として報道され、彼女たちは社会的にも重圧を負わされた。が3人とも成績優秀の上、強い信念と弛まぬ努力で実績を示し卒業。ウメは大学院へ進学し真島利行の指導を受け、黒田チカは卒業論文を学会で発表し女高師に戻る。1921年(大正10年)丹下ウメは「家政学研究」の名目で米国へ、黒田チカは英国への留学を果たす。2年後黒田は帰国し女性に門戸を開いた理化学研究所の真島利行の下で研究を続け、1929年東北大学より理学博士の号を受けた。米国に残った丹下は1927年(昭和2年)ジョンズホプキンズ大学のPhDを取得(54歳)。帰国後は日本女子大校の教授をしながら理化学研究所の鈴木梅太郎の下でビタミン研究を続け、1940年(昭和15年)67歳で東大より農学博士号を受けた。
女高師研究科に進んだ保井コノは1905年(明治38年)女性で初めて論文を学会誌に発表。1911年には植物学論文を英国の学術雑誌に発表。この論文を見た東大の三宅泰雄教授に招聘され、東大での研究の道が開けた。再三、留学の話が挙がったが「女が科学をやってもものにならん。国家の役には立たない」と文部省に却下されていた。三宅や女高師の中川校長、東大の山川健次郎総長の口利きもあり、1914年、我が国初の女性科学者として2年間米国へ留学。帰国後は女高師で教えながら東大の藤井健二郎研究室で研究を続け、藤井の片腕となった。
【女性科学者第二世代】
原子物理学の湯浅年子。保井コノとは30年の歳の差があり、保井コノが我が国初の女性理学博士となった年に女高師に入学。保井や黒田が女高師で教鞭を取りながら東大や理研で研究を続けている姿を見て、卒業後は「自分が最も分からない物理」を選び、東京文理科大学(現・筑波大)研究科で原子物理学を専攻する。卒業後は女高師の助教授に。エレーネ・キュリー夫妻の研究に憧れ、1940年(昭和14年)フランス留学への出発直前、第二次世界大戦勃発。大使館から「命の保証は出来ない」と言われたが、父に「海外から日本を見ることも大事」と背中を押され出発。戦下で生活が困窮する中で研究を続け、1943年フランスで博士号を取得。パリ陥落寸前にドイツを経てようやく帰国。以後女高師で教壇に立ち、1949年パリで研究再開。海外事情の紹介や日本の女子教育、研究者のあり方についての著述も多く、日本人研究者の招聘、日仏共同研究の実現、芸術文化交流などにも貢献し、71歳パリで死去した。
【女性科学者第三世代】
更に10年後の1920年(大正9年)に生まれた猿橋勝子(地球化学)は21歳の1941 年、医師を目指し東京女子医専に合格したが、吉岡弥生の言葉に反発し偶々受け取ったビラに誘われて帝国女子医専に入学。1943年物理学科を卒業、戦時下で人気のあった軍の研究所へは行かず中央気象台の嘱託となり、戦後気象研究所に移る。1954年第5福竜丸事件が起こり、死の灰の分析研究に携わる。核実験反対・平和運動活動に入る。1957年東大より理学博士の号を受け、1962年米国スクリプス海洋研究所にて共同研究開始。1980年気象研究所を退官。1985年には日本学術会議の唯一の女性会員となり、女性研究者の地位向上、科学者のあり方や社会的責任、環境問題、平和問題に科学者の立場で取り組んだ。女性であること、私立学校卒、一介の官立の研究所での研究だったことなど、自身が受けた差別や冷遇体験から「女性科学者に明るい未来をの会」を設立し、若い女性科学者に毎年「猿橋賞」を贈呈し女性科学者の育成・応援活動を続けた。

考察
封建的な社会の中で高等教育の機会や研究の場を求めて苦闘し少しづつ道を拓いていった女性科学者たちの姿に出席者一同、頭の下がる思いだった。特に丹下ウメの道のりの何と長かった事だろう。「科学をやりたい、もっともっとその先を知りたい」という強い思いで挑戦し、弛まず努力し続ける彼女たちの真摯な姿を認め、手を差し伸べてくれた長井・真島・三宅・藤井・山川博士らの男性指導教官の理解と応援がなければ道は開けなかった。運を引き寄せるのも実力と言われるが幸運な出会いに感謝したい。
「一番分からない物理学専攻を選択した」湯浅年子の逸話に驚くと共に、戦争の最中、パリで研究を続け、戦後パリに戻りパリで死去した。その強い信念と徹底した態度には驚嘆する他はない。さらに女性の地位向上と科学者の社会的責任、環境問題や平和運動にまで視野を広げて活動した猿橋勝子。100年間で日本も漸くここまでに、女性科学者が科学以外の社会でも活躍できる舞台ができたのかと感慨深い。
それでも2016年の日本の女性科学研究者の割合は15.3%、世界で27位という低さである。米国の研究では生物学的な要因というより社会的・文化的要因が強いとされているが、果たして日本の社会環境はこの10年でどこまで変われるのだろうか…。
会員の一人からのコメント:「私にとって、彼女たちの“科学”に代わるものは何であろうかと改めて考えさせられました。皆様はそのような人生を貫くテーマをお持ちですか?」

参考資料
「近代日本女性史」4科学 山下愛子 鹿島出版 1970
「女性として科学者として」 猿橋勝子 新日本出版 1981
「先駆者たちの肖像―明日を拓いた女たち」 鈴木裕子 ドメス出版 1995
「拓くー日本の女性科学者の軌跡」 都河明子・嘉ノ海暁子 ドメス出版 1996
DVD「道もなき道ふみ分けてー女性科学者の100年―」 理化学研究所 2006

(記 北澤)

 

この記事の投稿者

ウィメンズクラブ