言い忘れましたが、第2の還暦もあっという間です
この18年秋学期、「セカンドステージを楽しむ詩心・気心」という科目名で、前半、詩を読み、後半、気功をするクラスを担当しています。その主旨は、気功をしながら学業に励み、健康に天寿を全うするためのすべを知ることです。詩に関しては、解釈を深めるためにまず、おのおの9つの質問を作り、議論する。気功は、伝統ある外丹霊動功と、新規に考案された五禽戯を行う。頭脳をクールに、身体をホットに。言い換えれば、適度の知的ストレスと、適度の身体的リラックスを狙います。最終的には、心身一如の境地を実感して、じぶんに最も適した健康法を手に入れることが出来ればと願っています。
このクラスの切っ掛けは、84歳まで活躍した貝原益軒の名高い著作『養生訓』でした。そこには、壮健なままに人生を全うした江戸人の叡智がありますが、その一節に、「古人は詠歌・舞踏して血脉を養ふ。導引・按摩して気をめぐらすがごとし」とあります。これは、芸術を習うことが導引(=気功)と同様だという主張でした。
いったい人生100年と言い始めてから、どれくらい経つでしょうか。
1964年の東京オリンピックの頃はまだ、人生50年と言っていたと記憶している。今でも、長生きはしたくないという人は意外と多いが、健康であろうとなかろうと、生きていること自体が良いことです。結局のところ思うようにはならないのですから。
アダムは930歳で亡くなり、老子は200歳とも300歳とも伝えられる。人生、生きてみるものです。驚くほど知らないことが実にたくさんあります。ただし、いつのまにか、政府自民党が「人生100年時代構想会議」なるものを立ち上げ、教育改革の名の下に労働年齢を引き上げて、結果、年金支給年齢を遅らせる政策へ利用するのは、悪巧みとしか思えない。
以下は、一種の戯れごととして聞いてください。まず、旧約聖書「創世記」には、<神が言われた、「私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」こうして、人の一生は120年となった>(6:3)とあります。生物学の一説によれば、哺乳類は、大人に達する年齢の7〜8倍相当が寿命だと言われるので、人間が16〜18歳で成人するのだとすれば、これを7〜8倍して、112歳から144歳相当となります。また、根拠は分かりませんが、詩人の谷川俊太郎が、現代人の年齢は昔の人の7掛けだと言っていました。つまり、今70歳でやっと、昔の49歳と言うことです。これで逆算すると、貝原益軒の84歳は、今の120歳になります。120歳は、2回目の還暦を迎える歳ですけれど、これが人間の寿命として穏当なのかもしれません。
ただし、馬には失礼ですが、ただ馬齢を重ねればいいわけではない。120歳が目標ではない。
ブッダの言葉『ダンマパダ』には、「頭髪が白いからとて、尊敬される長老ではない。ただの虚しい老いぼれである。真理あり、他者の害にならず、自ら清め、慈しみあって初めて、心の垢を取り除いた賢者となり、年長者として尊敬される」とあります。
キリスト教から言えば、初めにあったのは、言葉です。言葉は神とともにあり、言葉は神であった。言葉と知恵を手に入れようとして、人は、楽園を追放された。追放されて初めて、人は人となり、神への恐れを知った。恐れとは、じぶんたちを超える大いなる存在、大いなる知、への畏敬の念です。したがって、人はいつでも、言葉を命のように大切にする、知恵を学び続ける、そして、言葉と知恵のむこうへ不断に敬意を表す。これこそが人としての務めであり、人の宿命です。
別の場所にも書きましたが、儒教から言えば、「老いて学べば、則ち死して朽ちず」(儒学者佐藤一斎)です。学び続けることが、人の道なのでしょう。
人生半ばにして、思はぬ事故に遭い、思はぬ病いに倒るる人あれば、それを人は天命と言ふ。しかし、われはさうは思はず。僅かを除きて、本に養生が足りぬのであり、導引の不足であらう。日々詩歌に親しみ、日々気を練るのなら、則ち死して朽ちず。
立教セカンドステージ大学講師・立教大学名誉教授
山梨英和大学教授
渡辺信二
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