宗左近氏の詩に出会って

「聖書と私」 新井美穂

引き返し抱き起すこともできたはずなのに

一目散に走りに走ってふりむきませんでした

見殺しにしたのではないそれ以上です

むしろ積極的に母を殺した

その思いを深めるためだけの以後二十二年

やむをえなかったのだゆるされていい何度か

そう認めようとした心を何度もわたしの行為が

裏切ってゆく八千三十日あまりのあけくれ  (「愛しているというあなたに」より抜粋)

 宗左近氏の詩に、この夏、衝撃を覚えました。彼は、1945年5月25日の山の手大空襲で母を亡くします。母の死は戦禍ではなく、自分によるのだと捉え、母の死から22年目に詩集『炎える母』を発表します。彼は反戦の言葉を綴れなかった自分を見つめ続け、「贖罪なんてない」という発想の中で詩を編みます。彼は、表現する事が自己の魂を浄化する事を期待しません。自分をえぐり、自分を裁きます。非日常だから仕方ないという発想を持ちません。自分の罪を究明し続けた宗氏は、自分は他者を苦悩や悲哀から救い出せはしないけれど、詩を作る事で痛みを持つ人の傍に立ち続け、共に生きようと決めます。

 懊悩を経て立ち上がった彼の詩は、自分の罪と向き合っても倒れない事を教えてくれます。むしろ戦争は遠くで起こっているだけではなく、私の内にあるという事に気づかされます。日々、刃物ではなく言葉で、何も行動を起こさない無関心で、他者や自分を見殺しにしている私の内なる戦争。

 宗氏の在りようと詩は、今、他者の悲嘆を他人事にしないで共に生きるようとするならば、自分の罪から目を背けない、そこから始まると教えているように私には思えました。

 ホームカミングデーが、また、贈り物である毎日が神の祝福で溢れますように。

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編集チーム 十四期生