先日、3歳年上の姉が私の顔をじっと見ながら、こう言ったのである。
「なんだかお父さんに似てきたねぇ」
似てきたのは見た目だけではない。健康管理上、節酒を求められても晩酌を欠かさず、気休めに毎晩豆腐を酒の肴とすることで、体調ケアを心掛けているように装うあたりもそっくりなのだ。

亡くなって10年以上経過したが、毎年夏が近づくと父親のことが頭をよぎる。メディアで太平洋戦争を取り上げる機会が増えることがその一因なのだが、今年は映画「オッペンハイマー」を観たこともあり、例年より刺激が強かったのかもしれない。広島への原爆投下を知って、「負け戦を覚悟した」と語った父の顔が思い出された。ご多分にもれず、子供たちの前で戦争のことは話さない男だったが、晩年に認知症を患い、薄れゆく記憶の中で、終戦間際の出来事を語ったことがあった。

昭和20年7月14日、父の所属部隊は青森:三沢基地にて本土周辺で活動中の米機動部隊への特攻訓練中に、米艦載機の空襲により、集結していた攻撃機の大半が壊滅的な被害を受けた。その後、部隊は解散して下北の大湊警備府付となり、広島への新型爆弾投下の事実を知るのである。そして、8月9,10日の両日は大湊湾に停泊中の大型艦船などが米艦載機の反復攻撃の対象となり、終戦の日を迎えることになったのである。

関東地方が梅雨入りした頃、私は本州最北端の下北駅に降り立ち、レンタカーを借りて向かったところは「海上自衛隊大湊地方監査部:北洋館」(右写真)。ここは父が終戦を迎えた場所であり、北洋館は旧海軍時代を含めた資料館になっていた。そこで展示されている資料はそれほど多くはなかったが、父の語った出来事を裏付けるには十分なものだった。加えて、北洋館周辺には旧海軍時代の建造物が残っており、「北の防人 大湊」と銘打って公園風に整備されていた。また一方で、港に停泊中の海上自衛隊艦艇が目に入り、現在でもこの地は北の守りの要として機能していることが十分伝わってきた。

レンタカー返却までの時間を使って、恐山を経由して下北半島最高峰の釜臥山展望台から陸奥湾を眺め、当時の父に思いを馳せた。三沢沖800Kmの米機動部隊が彼のターゲットだったのだが、結果的に太平洋に散ることはできなかった。北洋館の資料によれば、「8月20日以降、各人はそれぞれの思いを胸に故郷へ帰った」と記されていた。「死して護国の鬼となってまいります」と言って出征した10代の若者は、人目を避けるように、新たな人生のスタートラインに立つことになったのだ。このことは父の心の中で、終生溶けてなくなることのない負い目だったのかもしれない。

その後、私はJR大湊線で陸奥湾に沿って下北半島を南下し、野辺地を経由して八戸に向かった。父も同じ鉄路を使って故郷に向かったはずだ。当時、放心状態だった父の心の片隅に、命を拾ったことへの安堵感もあったと聞いた。そして、彼は戦後の混乱期を含めてよく生きたのだ。

翌朝の目覚めはいつになく心地よかった。遅ればせながら、父の物語を受け取った感覚がしっかりと残っていた。そこで、この日は国指定名勝の種差海岸で太平洋を眺めることにした。JR八戸線で久慈方面に向かって約30分。そこは国内ではあまり見かけない、天然の芝生が波打ち際まで続く美しい海辺の風景だった。海霧が残る中、ビューポイントではブライダルフォトの撮影が行われ、まさに平和で心穏やかな日常がそこにあった。こうでなければならないと思った。私の孫もあっという間に小3と小1。いずれどこかで曾祖父の話をすることもあるだろう。おかげさまでその準備が整った。今回はとてもいい旅だった。(7期生 石巻)

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