今までのことを振り返る投稿の二回目になります。40代後半から、次男が社会に出たら何かを始めたいと考えていました。勤めていた会社に大きな不満はなく、生理的な欲求に近いものでした。組織内で自分のプランが通ったとしても手作り感に乏しく、これを定年まで続けて良いのか…という感覚です。また、両親と兄が50代半ばで他界しているので、気に掛かることをやり残してはいけないという思いと、自らの中小企業経営を熱心に語っていた祖父からの影響もありました。

と言っても、家族や自分の力量を考えると決断のつかない日々が長く続きました。ある日、先輩に相談したら「人生、自分のつくったものしか残らんよ」と言われました(前回投稿)。その時、ちっぽけな勇気が湧き起こったのを覚えています。

その頃、時代は1989年にベルリンの壁が崩壊し、1995年にはwindows95が発売されて、経済活動のグローバル化と社会生活のデジタル化が一挙に進みました。この環境変化によって、私が勤務していた会社では、生産拠点の海外移転、デジタル機器(PC・携帯・液晶TVなど)へのシフト、流通企業の寡占化とネット通販の台頭への対応など、国内外で大量の人員に関わる問題が発生しました。全社の問題として様々な人員対策に取り組みましたが、それでも対応しきれないのが実情でした。

同業他社も同じ状況で「ならば業界横断的な“仲間が仲間の仕事を探す”会社を作ろう」と考え始めました。しかし、私には器量も原資もありません。ただ、「強みの上に己を築く」という格言を信じていました。僅かでも私の強みと言えそうなものは、サラリーマンの思い付き(恰好を付けて言うとビジネスインサイト) と実績ある諸氏の「何事もやってみないと分からない」という言葉でした。

つね日ごろから、私の思い付きを面白がっていたある経営幹部に「休眠中の孫会社の定款を変更し、人材サービス会社から資本注入を得て仲間の仕事を探す会社を作りたい」と話しました。すると幾つかの条件をクリアーしたら応援するとの返事でした。その返事を信じて動き始め、極めて面倒な社内外の諸手続きを終えて、企画した会社が設立されたとき、53才になっていました。1年後には液晶TVで有名な企業からも出資があり、これを機に勤め先を退社しました。この頃、周りから「所詮サラリーマンの浅知恵。『会社ごっこ』のお手並み拝見!」とよく揶揄されました。

会社経営を始めると本当に色々なことがありましたが、幸いにして携帯・スマホ市場の急拡大、東日本大震災後の節電と再生可能エネルギーの啓蒙と普及、テレビ放送のデジタル化などの新しい事業機会に恵まれ、退任前には従業員約50人(含パートさん)、年商30億円前後の会社に成りました。

そして会社経営が安定したころ、祖父の話していた「業績は人格を超えず」を思い出しながら、会社の今後を考え始めました。それに合わせるように法律が改訂され、株式の過半数を持つ会社から「従業員共々、本体に吸収したい」との提案がありました。従業員の雇用が保障されたこともあって、これを機に(所得を得るという意味での)仕事を終えることにしました。

この会社での歳月は、約30年在籍した大企業時代より見えるものが数段違う経験でした。未熟で配慮不足な判断が恥ずかしいほどありました。しかし、なぜか暗くて重い後悔は少なく、前向きになれる反省・学びたくなる課題・語り合いたい記憶を沢山残してくれました。この意味で、生涯残るものになりました。ある創業経営者が「部や課を作るより、可能なら会社にして若手に任す。人は育つ」と言われていました。強く共感します。(7期 生 杉村)

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