先日、大学近くの映画館で、『沈黙-サイレンス』を観た。そして、ある種のなんともいえない大きな衝撃・感動を受けた。映画館を出た後もしばらくの間、今更ながら「人間とは何か」、「宗教とは何か」等々を深く考えさせられてしまった。そういえば2年前、専科に在籍中に選択した全カリの「宗教と実践」の授業で、「キリスト信仰の根源的問題を扱った遠藤周作の代表作『沈黙』を、マーティン・スコセッシ監督が映画化するので、完成したら是非観るとよい、おすすめです」との話を聴いたのを思い出した。それ以来、意識はしていなかったが、心の中のどこかでは上映をひそかに楽しみにしていたのかもしれない。

物語は、島原の乱の後、キリシタン禁制の日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴが、日本人信徒達に加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる・・・・・・というものであった。(新潮文庫カバーより)

映画には、残酷な拷問シーンや目も背けたくなる場面も少なくないが、一瞬でも目が離せないほど惹きつけられてしまった。感動的でハイライトシーンもいくつもあったが、中でも主人公のロドリゴが交わす、師であり既に棄教したと言われるフェレイラと再会したときの以下の対話が印象的であった。(小説より引用)

「わしが転んだのは、いいか聞きなさい。ここに入れられ耳にしたあの(信徒の苦痛の)声に、神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」(フェレイラ)
「黙りなさい」(ロドリゴ)
「では、お前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」(中略)「もし基督がここにいられたら」フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐにはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼らのために、転んだだろう」(フェレイラ)
「そんなことはない」(ロドリゴ)

映画は、非常に重い内容を扱った作品ではあるが、アカデミー賞候補にも挙っていたほど世界的に高い評価を受けたようである。クリスチャンではない自分としては、どれほど内容を深く理解できたかは分らないが、信仰の奥深さ、信じることの意味が問われているということだけは充分に分かった気がした。また、立教大学で学ぶ機会を得たことが、この映画との出会いにもつながったように感じている。(7期生:北原)

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