一昨年の夏のことである。私は友人たちに誘われるままに北海道を車で巡る旅に出た。首都圏から宗谷岬までの往復:3500㎞。いささか無謀とも思えたが、妻の三回忌を済ませ一区切りついた時期でもあり、二つ返事で誘いに乗ったのである。

灼熱の首都圏を脱出して仙台を過ぎ、北上盆地に入る頃には暑さも和らぎ、花巻あたりからは目の前に南部富士(岩手山)が威風堂々とその姿を現した。宮沢賢治もあの山を登ったのだ。彼の童話の舞台となった森や北上川の流れを思い浮かべながら、十和田八幡平の山々を突き抜けるとそこは津軽平野。「富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾を、銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて…」と太宰治が描いた津軽富士(岩木山)は夕日を浴びてそのなだらかな裾野を輝かせていた。この二つの名峰はこれといった旅の目的を持たなかった私に「海に浮かぶ利尻富士(利尻山)を眺めてみたい」という思いを抱かせてくれた。

出発から4日目の昼頃には根室海峡をはさんで国後島と向き合う羅臼の街に入った。乳白色の海霧が低く立ち込めた港周辺は真夏とは思えないような肌寒さだったが、これが道東の夏の風物詩なのだろう。羅臼岳をかすめて知床峠を越え、知床五湖に近づくと肌寒さも消え、心なしか森の緑も鮮やかになってきた。同じ知床とはいえオホーツクの気候は太平洋側とは異なるのだ。

知床五湖を訪れるのは二度目のことだ。初めてこの地を訪れたのは40年前、手狭な駐車場と小さな木造の管理人小屋があるだけだった。20歳の若者たちはそこにテントを張る準備を始めたのだが、クマが出ると聞き、一目散にウトロの海岸へと退散したのである。現在ではクマとの遭遇を避けるために「高架木道」が整備され、多くの観光客で賑わっていた。何といっても世界遺産なのである。

翌日は網走から宗谷岬まで走行距離:約300km。冬は流氷でおおわれるオホーツク沿岸の国道沿いには網走湖、サロマ湖など多くの湖や湿地があり、様々な開発の手が加わった本州の海岸線とは異なる景観が続いていた。日が西に傾き浜頓別の街が近づいてきた頃、首都圏からハンドルを握り続けてきた男がつぶやいた。
「少し寄り道をしよう。走ってみたい道がある」
「何処よ?」
「猿払村道:エサヌカ線、8km続く直線道路!」
さすがに穴場というだけあってこれといった標識もなく、所在を突き止めるまで少々手間取ったが、目の前に現れたエサヌカ線の風景は衝撃的だった。

建物はおろか樹木さえ見当たらない広大な牧草地を、ただ一本のまっすぐな道が地平線に吸い込まれていく。幾重にも重なった雲が夕暮れ時の光を遮り、走る車もなく、人も家畜も鳥の姿さえ見えない。ただ、オホーツクからの風だけが目の前を通り過ぎていく。まるで私の心の中を写し取られたように思えてならなかった。

一区切りついたとはいうものの、一方で目指すべき方向が定まらない時期だった。何もない景色は私の脳裏に様々な事柄を思い起こさせ、そして風のように消えていった。
「そろそろ行こうぜ。日が暮れる」
セルが回る音がいつもより大きく聞こえてきた。
「前に進むしかあるまい」
その時、私はそう思えたのである。

翌朝は宗谷岬から稚内を経由して日本海沿いを南下していったが、利尻富士は灰色の雨雲の中に隠れたままだった。ドライバーは帰路に入ってもハンドルを渡すつもりはないようだ。全く特異な才能を持ち合わせたヤツがいたものだ。利尻富士を眺められず、助手席で悔しがる私にその男はこう言い放った。
「また来ればいいじゃねぇか~」
持つべきものは友ということか。その時もまた、運転をお願いしたいものである。
(7期生 石巻)

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