我が家にはこの春15歳になる老犬がいて、室内の排せつ習慣が無い彼にとっては、朝晩のお散歩が欠かせないルーティンであり、さらには、今年とうとう古希を迎えてしまう私にとっては、貴重な歩行訓練でもあります。野川沿いの住みかに移って8年を数え、季節ごとにその姿を変える野川の景色を楽しみながらの愛犬との散歩は、それはもう穏やかで心休まるひと時ですが、ひとつだけ気に入らないことがあります。
というのも、そうした散歩道の途中の東屋にいつからか、ぼろ布をまとったホームレスが一人居着いていて、目に映る景色の一部を占領し始めたのです。思い起こしてみると、そのホームレスとの出会いは3年以上前にさかのぼります。最初は「やだなぁ」と言った気持ちだけでしたが、美しい桜の季節や水輝く初夏のせせらぎの風景の中に居座るそのホームレスの存在が無視できなくなり、私には腹立たしい感情が芽生えて、彼を排斥する方法は無いか!と八方手を尽くすようになりました。
調布市の環境生活課生活環境係あてに定期的にメールしたり、社会福祉協議会に相談したり、とにかく私の散歩道からその姿を消したくて、次第に私はしつこいクレーマーと化していきました。そして私の鋭い観察眼は、常にそのホームレスの行動に向けられるようになり、「ホームレスなのに弁当箱からお箸でご飯を食べている、きっと誰かが食べ物を与えているんだろう」「煙草を吸っている、吸い殻を拾って吸っているのか?火はあるのか、ここは火気厳禁だ!」さらには正月、そのホームレスに札を差し出す人まで目撃したのです。
ホームレスはお金をください、食べ物を与えてください!といった行動はとりません。町を徘徊してゴミ箱やコンビニの裏などで生活の糧を探している姿を見かけますが、乞食ではないのです。ホームレスに食事を与えたり現金を与えたりするのは、与える側の自己満足でしかない。そういった優越感を満足させるための行動が、ますますホームレスを定着させてしまっている。社会福祉協議会の人も似たようなことを語っていました。
しかしながら、人一人を強制的に移動させたりすることは、たとえそれがホームレスであっても人権侵害であり、本人の意思が無ければ立ち退きはさせられない、というのが民主主義を謳う日本の行政や福祉の考え方であり、結局そのホームレスは時々姿をくらましても、ちゃんとその日当たりの良い東屋に戻っているのが現状です。こうして、排斥は不可能だ!行政は無力だ!などと嘆いているうちに、私はそのホームレスの人生や人格について思いを巡らすようになっていました。
あのホームレスにも親はいたんだろう、家族がいて幸せな団らんもあったのかもしれない。何が原因でホームレスになったのか?どうしてあんな状態で生きていられるのか?その精神状態はどうなっているのか?壊れているのか?他人に危害を与えたりはしない、悪人ではないらしい。悪人ならホームレスにはならないだろう、生きるために犯罪者になるだろう、もしかしたらあのホームレスは大富豪かも知れない…などと、散歩の度に目に入るその存在が、今や私の思考の一部を占領し始めたのです。
こんな小さなペットにも、あのホームレスにも、そしてそんなことを考える私にも、命は等しく存在している。そしてその命を永らえようとする行動そのものが「生きる」という事だとしたら、その存在が不快だと言って排斥しようとする私の思考や行為は、生命の存続を否定することになるのか…‥などと妄想は広がるばかり。かくして、今朝も愛犬と散歩に出かけ、見慣れた景色の中にそのホームレスの姿を無意識に探している私がいるのでした。(7期生 梅原)
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