<小澤さくら、小澤征爾のおふくろさん・前編>
今年1月23日小澤征爾の最初の妻でピアニストの江戸京子が86歳で亡くなった。2月6日その後を追うように小澤征爾が88歳で生涯を閉じた。日本の若者が国際指揮者コンクールで優勝したのは私が中学2年の時、それからずっと小澤征爾は眩しい人。RSSC修了後、新たな学びを始めて短大・大学と7年間(長期履修制度利用)通学した動機の一つである。
1959(S34)年2月1日、前年に桐朋学園短期大学を卒業した24歳の若者、小澤征爾は単身貨物船に便乗して神戸港から出航、3月23日マルセイユ着。ギターを背負いスクーター(ラビット)を運転してパリに到着したのが4月8日。小澤は「音楽の勉強のために行ったのではない、音楽の生まれたヨーロッパをじかに知りたかった」と言っているが、短大卒業の仲間が次々と海外留学に出かけるのを見送り「自分も何とか海外に」という羨望と焦りの日々に加えて、パリ国立音楽院に留学した短大同期生で後に妻となる江戸京子の居るパリに行きたかったことも大きな動機だったであろう。更に小澤が卒業した桐朋学園女子高等学校(名称に女子があるが音楽科は男女共学。小澤は音楽科1期生男子4名の内の一人)の後輩でヴァイオリンの石井志都子も「面倒見のいいお兄ちゃん」である小澤を追いかけ高校を1年で休学して単身パリにやってきた。小澤が旧知の女の子二人とその友だちに囲まれて初めての海外・パリを満喫していた6月、16歳の石井志都子がロン・ティボー国際コンクールで3位に入賞、これで小澤の気持に火が付いた。
そんなある日、江戸京子から「パリ国立音楽院に指揮者コンクールの張り紙があるわよ」と教えられ映画「ローマの休日」アン王女のVespa(スクーター)よろしくラビットの後に京子を乗せてパリの街を走りパリ音楽院に行ったのだが何が書いてあるのかフランス語でかわらない。京子の手助けで応募、それからは文字通り寝食忘れて京子とその友人にピアノを弾いてもらい(指揮の勉強では指揮者の指示通りにピアノ演奏してもらう練習が欠かせない)猛勉強、3か月後の9月12日ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝、あっという間に「世界の小澤」になった。
小澤にパリ行きの費用、現在の価値で約500万円をパンと渡してくれたのが成城学園 の同級生水野ルミ子の父・水野成夫(文化放送、フジテレビ、産経新聞等の社長等を歴任)、始めは反対していた恩師・斎藤秀雄も費用を援助、三井船舶の貨物船「淡路山丸」に船賃無料で乗船を手配してくれたのが江戸京子の父・江戸英雄(三井不動産社長)、江戸英雄の紹介で日興証券会長の遠山元一も資金援助、当時どこへ行くにもオートバイというライダー生活だった小澤の渡航にスクーター(ラビット)を寄贈してくれたのが父の知人で富士重工の松尾清秀。小澤の初めての海外武者修行は周囲の援助で苦労らしい苦労もせずお金にも友達にも恵まれパリで自由気ままな生活を謳歌していたのだが、江戸京子に教えてもらったコンクールに応募したことで人生が変わった。
小澤征爾は中国・長春で歯科医院を開業していた父・開作と母・さくらの三男として中国で生まれ、開作が軍人の板垣征四郎と石原莞爾(関東軍作戦参謀で満州事変の実行者と言われている)から1文字づつ貰って「征爾」と名付けた。開作は石原莞爾らが提唱していた「五族協和」の満州国建国を実現しようと政治結社を立ち上げ新しい国つくりに時間も金も注ぎ込み没頭する。しかし開作らの想いとは裏腹に東条秀機、岸信介らにより日本の傀儡国家となり対日感情は悪化、小澤一家は1941(S16)年3月帰国、立川に居を構えた。
同年12月8日:日米開戦、1945(S20)年8月15日:敗戦。
ー(次回11月21日掲載予定 「その2」に続く)ー (7期生 土谷)
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