日本人は個人の尊厳を尊重できるか

渡辺信二
立教大学名誉教授
立教セカンドステージ大学特命教員
専攻科ゼミ担当

 既報の通り、世界経済フォーラムが公表した「ジェンダー・ギャップ指数2022」によれば、日本の総合スコアは、0.650、順位は146か国中116位(前回は156か国中120位)でした。前回と同じく、先進国の中で最低レベル、アジア諸国の中でも韓国や中国、ASEAN諸国より低い結果となりました。これはでも、単なるジェンダーの問題ではありません。基本的に、個人の尊厳を尊重できるかどうかの問題です。そもそも、先進国だと、何をもって名乗ることができるのでしょうか。(男女共同参画局https://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2022/202208/202208_07.html)

 2023年9月現在、ジャニーズ問題が一世を風靡していますが、これは、いろんな意味で日本の縮図でしょう。ほとんどの人が、その場その場の力あるものに頭を垂れてきた「寄らば大樹の蔭」の国、日本。「お蔭様で」生きてきた住民の多くは、正邪の感覚、倫理観では動かない。損得勘定、つまり、どう世間を上手に渡るかという道徳が大切です。これは別名、他者への気遣いであり、忖度でもあります。ジャニーズ問題でも、スポンサーの現在の判断を忖度した上で、メディアが動く。そのスポンサーも、BBCがこの問題を報道し国連が動くまでは知らないふりをしていた。NHKを含め、現在のテレビ局や新聞社のほとんどは、記者クラブ制度にどっぷり浸かって忖度が命ですが、後出しジャンケンはする。50年以上も前に、問題は実は告発されていたと、今頃になって取り上げます。同時に「でもタレントに罪はないから」と曖昧に、あるいは、時の流れに従って、決着させてゆくのでしょう。歴史から学ぶ姿勢が希薄です。

 西洋流の発想だと、為政者は、それ以前の歴史に責任を持ちます。たとえば、魔女裁判ですが、2022年、スコットランドの首相によって行われた謝罪は、先行例が多数あり、決して、歴史上で初めての魔女裁判への謝罪ではありません。1638年の北米植民地で、女性差別・宗教差別によってボストンを追放になったアン・ハチンソンに対しては、恩赦と名誉回復が1987年に行われたり、2008年と2021年の2度、アボリジニへの謝罪がオーストラリア政府によって行われています。

 日本は国家として、1910年の大逆事件や、1923年の甘粕事件に関して謝罪していません。甘粕事件では、大杉栄・伊藤野枝とその甥の橘宗一(6歳)の3名が憲兵隊本部で殺害されていますが、もし、甥がアメリカ生まれで二重国籍でなかったなら、米国政府が問題にすることがなく、この事件は、闇に葬むられていたかもしれません。また、アイヌ民族への差別発言は謝罪するにしろ、アイヌ民族への謝罪そのものはありません。この辺りは、大和民族の歴史意識を探る意味でとても興味深いものです。

 立教大学は、リべラルアーツを謳い、セカンドステージもこれに沿って「自由な市民」を育てるように努めていますが、かなりの努力をしても、一私大だけでの限界は目に見えています。歴史を振り返れば、戦時中は、池袋キャンパスに軍監がいました。そして、当時、キリスト教教育が否定されました。(写真で見る立教学院の歴史 https://www.rikkyo.ac.jp/research/institute/rikkyo_archives/photo/03.html) 誤解を避けるために直ぐに付け加えますが、この指摘をするのは、立教大学の現在のリベラルアーツ教育が外部からの圧力に影響されず、さらに強く大きく育つべきだという希望からです。

 確かに、私立学校レベルや個々の教員レベルでは、良き教育環境が確保されている場合があります。伝統的に言っても、連歌・茶湯・句会などの「場」の文化では、それこそ、その場限りの一期一会とは言え、かなりの平等を保障していたようには思えます。しかしながら、戦後から現在までの公的教育政策において、個人の尊厳を大切にする市民教育も民主主義教育も、日本全体で未だかって行われたことがありません。

 ご存知の通り、日本の現行の教育基本法第1章第1条は、教育の目的として、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」としています。しかし、この文章の力点は「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成ではなくて、「心身ともに健康な国民」の育成にあるように読めます。実際、日本国民がすべからく「平和で民主的な国家及び社会」を形成する者たちで構成されるようになったのなら多分、いじめや差別は、存在しなかったでしょう。でも今でも、少なからぬ学校で放置ないし隠蔽されていることは明らかです。そして、奇妙なことに、いじめや差別を受けた者がその学校を去るのが日本の常態です。

 教育方法も、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」を涵養するにはどうするのか、という観点から語られることがありません。明治以来の情報詰め込み主義で、個人の自由な発想を尊重しません。「気をつけ」「前へ倣え」「礼」などと叫ぶ朝礼とか運動会などに垣間見られますが、依然として、旧軍国主義的統制・統率の残滓が公教育に生きています。そもそも、詰め込み主義なので、欠席すると身につけるべき情報に空白が生じます。なので、学校を休み辛く、卑近な例ですが、家族の都合で家族旅行を行えません。旅行は国民の休日に左右されるので、三連休等は毎度、40〜50キロの渋滞です。

 文部科学省が推進しようとしているのは、国際教育、キャリア教育、プログラミング教育の3つであり、環境教育は環境省、人権教育は法務省、消費者教育は消費者庁、金融教育は金融庁、多文化共生教育は総務省と地方自治体の教育委員会(教育庁)や学校現場で提唱され、取り組まれていると聞きます。どこにも、シティズンシップ教育、市民教育や民主主義教育はありません。

 国家レベルで文教政策を転換しなければ、個人の尊厳への敬意は身につきません。しかもそれは、国民全員に遍く身につくようにという国家の教育政策があって、それでもなお、3世代ほどを経た後に初めて、実現しているかどうかでしょう。人類の歴史を振り返ればすぐにわかりますが、偏見や差別は、そう簡単に消滅しません。言い換えれば、未来に向けた不断の努力が教育の場で必要です。実際、努力を続けているはずの欧米諸国でも、完璧な市民社会が実現している国があるでしょうか。じぶんの例で恐縮ですが、また、60年以上も前の個人的な話ですが、子供時代を振り返っても、「男は一家の大黒柱」「結婚して妻や子供を養うのが男だ」といった父権主義・男性中心主義、また、他民族批判の言説が溢れる家庭環境で育てられてきたために、気をつけているのですけれど、どこかでふいに偏見や差別意識が飛び出すことがあります。

 ですので、努力しようとしない国はまずは、後進国でしょう。学力はあれど応用力なく、目先の先端性に目を奪われて、基礎的な学問を無視します。スキルやテクニークへの渇望はあれどそれらを誕生させた思想や哲学への理解なく、人目や良し悪しを気にする道徳はあれど、正邪から判断する倫理なく、公民教育はあれど市民教育がない。

 第2次世界大戦に敗れて「臣民」から「基本的人権」ある「国民」になったはずなのに、実は、日本国民は、市民ではなくて「公民」であり、個人ではなくて「ひと」であるらしい。あるいは、西洋流の天賦人権論を、日本の民族的・歴史的な考え方ではないとして真っ向から否定する人たちが、時の為政者たちに多くいます。また、「差別」はともかく「不当な差別」はいけないと、明記する法律もあります。

 ただし、でもこれでいいのだ、日本はすごい国なのだから、という意見もあるでしょう。基本的人権を認める民主主義が必ずしも良い訳ではないという反論もあるでしょう。では、意見が違うときに、どう決めますか。その時その時の都合に合わせて、どちらの樹の背が高いかで決めますか。染井吉野、セイヨウ菩提樹、アメリカ杉などがあります。樹の選び方もまた、民族の知恵かもしれません。・・・