この夏はコロナ感染症の感染拡大が継続しているなかでオリンピックが東京で開催された。国内で運動会や各種催し物が延期・中止されているなかでオリンピックは中止にならない。それにしても不思議な祭典であった。1964年のオリンピックとは何と違うのだろう。あのときは世界からアスリートが来ていてお祭りをしているという実感があった。今回はどこか遠いところで開催されているオリンピックという感覚であった。何があっても巨大な利権システムは止められないというこの社会の欠陥を目撃したような気分であった。日本政府にこの巨大システムを変える覚悟も能力もなかったのも事実である。またコロナ感染症蔓延を何としても抑えたいならワクチン接種後の10月にオリンピックを延期すべくIOCと交渉すべきだった。沖縄人民のためにアメリカ軍基地を縮小すべく交渉する覚悟もないのと同じことである。戦後日本で一貫して存続している棄民政策のひとつであると認識すれば納得できる。日本政府には検査場あるいは病院をひとつ造る予算はないが巨大なオリンピック施設を造る予算はあるのだろうか?1年7か月間、検査体制の整備ひとつできなかった政府は無能・無責任でしかないことが多くの人に明白になった。オリンピックの競争原理は資本主義の本質と共鳴するし、その暴力性を隠蔽する装置として最高のイベントであるから政府は執着したのだろう。おそらく政府中枢は森友関係文書偽造、河井候補選挙法違反事件、桜を見る会収賄事件などとおなじようにコロナも騙し通せると考えていたのかもしれない。ウイルスは日本国民のように淡泊でも、単純でもなかったということだ。
原則反対でもテレビを付ければ競技は中継されているし、サッカーや野球は昔から好きなスポーツなので見てしまう。しかし、世界的祭典を開催しながら、祭り気分になるなと上から命令しているので、違和感は否めなかった。終わってみれば、パラリンピックの方が印象に残ったのは何故だろうか。テニスも陸上競技も水泳もパラリンピックの競技をじっくり見たのは初めてだった。おそらく、オリンピックはマネー本位の醜悪なビジネスであることを露呈したが、パラリンピックはまだ純粋だったからだろうか。開閉会式もパラリンピックの方がずっと良かった。また地方振興を目玉とする「ふるさと納税」と富の集中を加速する東京オリンピックとはどう考えても両立しない。東京一極集中が問題であるなら、名古屋か福岡或は仙台などでオリンピックを開催すべきであった。富の集中を加速させる東京オリンピックを強行開催したことは、「ふるさと納税制度」が富裕層の脱税装置でしかないことを明らかにした。
昨年3月から続くコロナ禍で買い物以外の外出はほとんどなくなった。親族とも友人とも会うことはほとんどなくなった。毎日、話し相手は妻だけであり、ときにお互いを鬱とうしくなることもあった。なんとか機会をみて、感染が減少し、緊急事態が解除された時期に親族に、特に、娘と孫達には2~3度会うことはできた。8月に娘が3女を出産したのだが、産院はもちろん面会禁止であるので、1か月後に世田谷の嫁ぎ先に行き会うことができた。夫が売れない画家で収入が低いなか、3人も子どもを生んで育てられるのかと心配であるが、娘は子育てが面白いらしくとても穏やかで、満ち足りた表情であった。おそらく、夫の実家敷地にそれなりに広い家を建て、ストレスなく子育てができる環境に恵まれているからかもしれない。少子化を解決するために子ども手当を増額することを政府は検討しているようだが、家族の基本は住にあるので、誰もが故郷で生活できる日本にすることが肝心であろう。住とは祖先や両親が築いた資産なのであるから、その資産を捨て、都会に出れば貧しい住に出会うことになってしまう。住だけでなく、自然、地域、農地など蓄積された富を失ってしまい、貧しい都市住民となる。もちろん、資本主義の終焉期にある日本は資本主義的な膨張、増殖はもう不可能なのだからいくらもがいても人口は減少し、明治初期の人口数になっていくのかもしれない。
昨年は新型コロナ感染症の世界的流行が始まった年でもあったので、感染症、危機管理、地球システム危機などの書物を読んだが、最近は「人新世とは何か」を終えたあと、文学に傾いている。娘が3姉妹を育てていることにヒントをもらい谷崎潤一郎の「細雪」に挑戦している。また江戸時代に書かれた古典「雨月物語」、朗読会で取り上げた芥川龍之介の短編なども読んでみた。来年度から高校の教科書に小説が掲載されなくなるという記事を読み、8年前に読んだ「日本語が亡びるとき」を再読した。新自由主義は過剰な英語偏重を生んでいるのかもしれない。また人間中心主義を見事なまでに超越している宮沢賢治の童話や詩なども簡単なようで奥が深い。実は春から賢治を読みだして、コロナ感染症が少し収まった6月末、花巻の賢治記念館と童話館を訪れた。花巻近郊の大沢温泉も由緒と趣を味わえるとてもよい温泉であり、どこも空いていていい旅であった。また書物に飽きると、YOUTUBEで斎藤幸平氏や内山節氏の講演を何度か聴いてみた。月一度Zoomを通した内山節の仏教講話も欠かさず聴いていた。経典では{利他こそが自利の道である}というが、容易でない。
日常生活ではスーパーに買い物に行くだけの毎日であり、外食もこの1年で3~4回程度であった。コロナ前からほとんど食事は家ですませていたのでリスクが高く、それほどおいしいわけでもないので外食はやむをえない場合に限っていた。定年後は時間がたっぷりあるので妻とふたりで工夫しながら、時にはスマホを見ながら料理を作っている。また夏は庭の畑で、キュウリ、ナス、インゲン、ピーマンなどが簡単に実るのでこの野菜を収穫し、材料にすることも日課になる。もちろん、水遣りや肥料施し、雑草をとるのも夏の仕事である。木々の剪定や芝刈りも含め庭仕事は汗をかいて適度な全身運動になる。
最近、メディアが使っている言葉についておかしいことがある。コロナ患者の自宅療養という言葉は使い方が間違っている。自宅療養とは医療機関での診療が終わった後に自宅で療養することを意味する。政権からの受け売りだろうが、実態は自宅放棄というべきであろう。安倍政権時代からの言葉のごまかし、安売りが続いているので注意が必要である。メディアはどうして日本はヨーロッパ諸国のように、実情に柔軟に対応してコロナ病床を増やすことができないか説明すべきであろう。危機管理がしっかりしていれば人口当たり病床数は世界一の日本で病床が逼迫するはずはない。日本は小規模な民間病院が多いというのも充分な理由にならない。どうも厚生省も絡んだ利権構造が国民の命を犠牲にしているような気がするが、過去25年間、新自由主義的発想で病院の統廃合、感染症病床の8割削減を推し進めてきた政権が直ちに感染症病床の拡充などできるはずがないともいえる。政権は重要土地利用規制法や共謀罪関連法など権力を強化する法は急ぎ成立させたが、この夏与党は野党の憲法上の要求を無視して、国会を開かなかった。国民の命はどうでもいいというのが現政権の本質なのだろう。
最後に、9月12日の新聞に高校の国語教科書についての記事があったが、来年度から国語の時間数を減らし文学を選択にするらしい。つまり、今まで、高校で必ず出会った日本文学の傑作に多くの高校生が出会えなくなるということである。これは政府の日本語軽視であり、言葉を大切にしないで“ごまかしの道具”としてしか使ってこなかったことと関係している。さらに、国語、文学はGNP上昇に寄与しないのに対し、英語のレベル向上は日本のGDPを引き上げる力になるという新自由主義的価値観が背景にある。水村美苗が「日本語が亡びるとき」で書いているようにこの事態は日本語の危機であり、先人達の努力を無にするものである。現代の若者はアニメやゲームの普及で小説に親しむ機会が少なくなっているのだから、せめて教科書で漱石や鴎外などの豊かな日本語の世界に出会ってほしいと願う。GNPがもたらす豊かさはフローであり、文学や言葉、それらを基本にした文化・芸術の豊かさ、さらに自然の蓄積された豊かさがGNPよりずっと大切なものであることが政権幹部には永遠にわからないだろう。そして教育や医療は効率、GNPなど市場価値で評価できるものでない。企業利益/経済成長に寄与しないものはことごとく排除するという新自由主義を速やかに、日本から一掃しないと大変なことになる。

2021/9/25             6期生        小林英一