先月のはじめ、イスタンブールを舞台にした「レイラの最後の10分38秒」(エリフ・シャファク著)を読みました。著者はYouTubeで「私はフランスのストラスブールで生まれました。トルコ人の両親は、私が生まれて間もなく離婚し、母は私を連れてトルコに引っ越しました。(中略)近所はどの家も大所帯で 父親が家長だったので、父家長制の社会で離婚した母を見ながら育ちました」と話しています。
正確な文章は忘れましたが、作品の中にイスラム教徒の父親(家長)が娘に“ひとは傷つきやすいトマトみたいだろう。だから、衣服で大切に身を包むんだ”と話す場面がありました。その衣服は、前後の文脈からブルカかヘジャブ(左写真)です。
私は、この数年、身の回りにある様々なモノの価値はどの様に形成されるのか、をテーマに学生生活を送っていたので、「やはり衣服はヒトの包装紙なんだ!」と思いました。
モノには、主として機能的価値と意味的価値があります。例えば、三越の包装紙は「買った品を保護する」機能と「三越で買ったこと」を意味します。同様に衣服も「身体を保護する」機能と「自己の選択(≒私らしさ)」を発信します。有名店の包装紙や高級ブランド品、時に自動車も、機能的価値よりも意味的価値の方が大きいのが普通です。身やモノを「包むこと」は、機能+メッセージなのです。
「レイラの最後の10分38秒」の父親(家長)は、非イスラム・非部族の情報を衣服から発信して、娘に面倒を起こして欲しくないのです。家長を校長に、戒律を校則に、娘を生徒に入れ替えると、学校の制服も同じ意図を持つように思います。組織を一つの価値観で纏めようとする場合、衣服による情報発信が制限されていくようです。また、服従・帰依など権力や権威への従服を衣装に絡めて言語化されていることにも着目する必要があります。
さて、少し我々の暮らしを振り返ってみると、1980年頃、百貨店は「じぶん、新発見」・「不思議、大好き」・「おいしい生活」などのコピーを使って、持ちモノとファションで私らしさを発信しょう!と盛んに広告していました。
その時の「じぶん、新発見」のポスターは、裸体の子供をキービジュアルに使っていました。彼女(?!)はこれから西武で服を選び、アクセサリーを身に付け、自分を新発見して、それを発信するのでしょう。
※写真出所:https://note.com/miyaccchi/n/n1f647a26bf4d
しかし、2000年頃から情報社会に入り、私らしさの発信がメールやSNS(LINE、Twitter、Instagramなど)に移ります。その結果、衣服の意味的価値は大きく低下して、機能的価値中心の購入が進みます。それを示す事象が、流行(モード)の衰退とファストファション企業の拡大です。デジタル情報技術が、UNIQLO・ZARA・H&Mなどを成長させ、情報発信基地としての百貨店を衰退に追いやったと考えることができます。
コロナ禍でリモートワークやリモート講義が定着し、環境問題・経済のサービス化・非正規雇用の拡大などもあって、機能的価値重視の衣服の時代が今後暫く続くでしょう。ですが、私には、意味的価値の乏しい機能偏重のファションはデジタル時代の疑似制服、身を包むエコバックのように見えて面白くありません。そして少し心配です。
情報社会は、油断をすると監視強化やポピュリズムに陥ります。「身を包むこと」は、個人の一番身近な表現(アート)形式であり、デジタル集権化に拮抗して人間性を保つ大切な手段だと思います。服装に現れる社会の多様性(diversity)・同調圧力の強弱・世相などに関心を持ちながら、新緑の街に出ていこうと考えています。(右写真:ストリート系ファション)
(7期)杉村
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