「尼さんになりたい」と母に言った。しばらく沈黙の後、「いいけど、本気なの」と聞かれた。高校2年生の秋のことだった。理由は二つ、高校1年生の時大きな交通事故に遭い九死に一生を得、命について考えたこと、両親の不和に悩み心の居場所をさがしていたこと。その頃、道元の思想を習った。自力本願、曹洞宗、禅宗、座禅、正法眼蔵等々を深く調べていくうちに強く魅かれていった。その先を知りたくて「尼さん」となったのである。不安定な自分の心に確かなものを求めていたのだろうか。

この秋、私は田んぼ道を浄土寺へと急いでいた。見渡す限り黄金色の播州平野は収穫の時節を迎えていた。真っ赤な彼岸花があぜ道を縁取り、黄色と赤のコントラストが一枚の絵のように広がっていた。日没が迫っていた。たどり着いたそのお寺は田んぼの一角にひっそりと建っていた。

兵庫県小野市、極楽山浄土寺に国宝阿弥陀三尊像が安置されている。1192年の創建から800年余、風雪に耐えてきたのである。憧れて着いたお寺は閑散としていた。鐘楼は傷み、他のお堂も樹木も手入れが行き届いているとは言い難かった。あまりにもさっぱりしているので拍子抜けしてしまった。その中にあって、浄土堂は古色蒼然としていて、屋根瓦は優雅な曲線美を描き、天平人の着物の裾広がりのように優美に見えた。全国に東大寺南大門とここしかないつくり(天竺様)だと説明に書かれてある。

浄土堂の質素な入り口を入る。中は暗くて何も見えない。蔀(しとみ)から入る自然の光をたよりに目を凝らしながら進んだ。ぼんやりと照らし出された阿弥陀三尊像をまじかに見上げたとき思わず「ウォー」と声が出て、その場に座り込んでしまった。高さ5メートル余の阿弥陀如来像はすべてのことを受け入れて静かに見守っている表情に見えた。うつむき加減の控えめな眼、すーっと曲線を描いた眉、語りかけようとする口もと、ふっくらした頬、金色に輝くこの像に引き込まれ時が止まったような気がした。とりわけ何も意図していない目がいい。自然体だがすべてを見通ししているようだ。阿弥陀三尊の背後は透かしの蔀になっていて、西日が蔀を通して床を照らしその光で三尊が金色に輝き、その様子は、西方極楽浄土よりの來迎の姿を浮かび上がらせるようだと説明書にある。その日は雲に遮られ輝く三尊は見られなかったが、心は満足だった。帰りがけにもいちど阿弥陀如来像を拝した時、突然「尼さん」という言葉とともに懐かしい人に出会ったような気持ちになった。高校生の頃が鮮やかに蘇った。

高校3年生になり、「尼さん」になる道を頑固に押し通す意地も希望も砕けて、大学に行き社会に出た。社会に出ても確かなものは見えてこなかった。子育てしながら定年まで勤めた。子育ても楽しかったし仕事もやりがいがあったが、終えた時、身も心も疲れ果ててしまった。

夫が四国霊場八十八カ所をすべて歩いて廻るという。山道、坂道一日7~8時間ひたすら歩いた。激しい豪雨に見舞われたことも耐え難い日照りの日々もあった。美しい虹に出会ったこともあった。歩いているうちに心が空っぽになっていく自分に気付き始めた。「なぜ、歩くのか」から「次のお寺へ歩く」へ、そして「道があるから歩く」に変わっていった。歩き終えた時は、身も心も軽くなったような気がした。
そして、この浄土寺へつながっている。

「尼さん」の生活は質素倹約を旨として仏に仕える厳しい修行の道と聞いている。私は、社会に出ても右往左往してばかりで確かなものは見出し得なかった。ただ一つ「生きてきた道」がここにあるということだけであり、この道は自分なりに努力してきた道だと思っていた。しかし、浄土寺の帰り際に「不遜なことですよ」と阿弥陀如来像に諭されたような気がしてきた。生きる修行の道は続いている。(7期生 須藤とく子)

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