『没後40年 熊谷守一回顧展 生きるよろこび』鑑賞記
         名画(美術)鑑賞友の会

 つぼみのほころびを待つ季節、開花のニュースが例年より早く届いている。しかし、東京国立近代美術館の周辺はまだまだ寒々としていた。
それでも、美術館に行くと思われる人の数は多く、その熱気は寒さを和らげてくれた。
「名画鑑賞友の会」で東京国立近代美術館を訪れるのは2度目。美術館に入った右手の芝生に木村賢太郎がグランプリを取った『七つの祈り』の彫刻が設置されているが、再会できるのは嬉しい。「熊谷守一回顧展 生きるよろこび」は多面的な画業と人物像に新たな光を当てた、大回顧展だった。平日にもかかわらず鑑賞者は多く、特に外国人が多かった。

熊谷守一 (1880~1977 97才没)
 岐阜県出身。東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科撰科で青木繁らと学び、画力は高く評価された。在学中に実業家の父が急死し、借金を背負いながら苦学して卒業する。
今回の回顧展では、200点の油彩を中心に、困難や苦悩の時を経て多作の著名作家になるまでの波乱の生涯をたどることが出来る。以下、三部に分けて内容を紹介する。『猫』(1965)

第一部 闇の守一 ~光と闇~
 20~30歳代に描いた光と闇が織りなす暗色の絵が並び、よく知られた後年の熊谷作品とは印象を異にする。卒業作品『自画像』は熊谷の力量を示していた。暗い茶色のモノトーンは作品に深さを感じた。在学時は『海の幸』で有名なあの青木繁(同級生)より高い評価を受けていたことを納得させる。『轢死』は投身自殺の現場に遭遇して描いたが、着衣がはだけた女性の惨状を微光に包んで神秘的に表現していた。

第二部 守一を探す守一 ~フォービム風の筆使い~
 40歳代からの中年期の作品を集めた。特徴はフォービズム(野獣派)のような鮮烈な画面で「色彩の魔術師」と言われたマチスを彷彿させた。熊谷は60歳近くまで売れる絵をほとんど描かず、貧しい中、次男の陽、三女の茜が幼くして病死している。長女の萬も21歳で病死している。『陽の死んだ日』は絵の具をたたき付けるように荒い筆使いで表現している。

第三部 守一になった守一 ~明快な形と色で表現~
 70歳以降の熊谷様式の完成期。60歳前に画面に登場した赤い線で輪郭を縁取った作風が確立する。70歳半ばからは、体調を崩したこともあり東京の自宅をほとんど出ず、庭で動植物を観察、仙人のような風貌と生活。文化勲章を辞退。作品は稚拙に見えても配色が計算し尽くされていた。色彩理論を学び続け、後期印象派などを研究した成果だ。

懇親会は定番の「銀蔵」でおこなった。今回、熊谷守一の画業と人物像を知ることができた貴重な回顧展だった。豊島区要町にある「熊谷守一美術館」にも行ってみたい。(渡邉敏幸 記)

『雨滴』(1961)

熊谷守一

 

 

 

 

 

 

※画像コピーは国立近代美術館HP展覧会「熊谷守一回顧展 生きるよろこび」より