葛飾北斎・名画鑑賞友の会 事前学習資料   2017,7,24 渡邉敏幸

 

『北斎漫画』が世界に与えた衝撃の大きさb

19世紀の半ば、フランスのエッチング作家だったブラックモンは、日本から送られてきた陶磁器の包み紙を友人宅でたまたま目にする。ブラックモンはその包み紙に、自由闊達に描写されたこれまで見たこともないような数多くの「絵画」を発見。その内容に驚愕した。このとき、ブラックモンが目にし、大いに感銘を受けた作品こそ、葛飾北斎が53歳から亡くなる90歳に至るまで描き続け、世界の森羅万象の全てを絵画化したと評される「北斎漫画」だった。

これを契機に、ブラックモンと親交のあった印象派の画家たちの間で北斎は,瞬く間に「絵の先生」とよばれるようになり、彼らは「北斎漫画」をまさしく「絵手本」として、自らの想像力に磨きをかけた。

世界で最も有名な日本の絵師・葛飾北斎。代表作である「富嶽三十六景」や「北斎漫画」は19世紀後半の西洋に衝撃を与え、その潮流はやがて巨大なうねりとなってジャポニズムと呼ばれる芸術活動に発展。ドガが、モネが、さらにゴッポさえもがその絵の虜になり、彼らは北斎のあらゆる描写を自作に取り入れ、新たな芸術世界を構築しようとした。

 

葛飾北斎(1760~1849)

江戸中期から後期にかけての浮世絵師。江戸・本所割下水(現在の墨田区亀沢付近)に川村某の子として生まれる。幼年時の事柄については明らかでないが、幼名を時太郎といい、後年鉄蔵と改めた。4,5歳の頃に一時、幕府御用鏡師中島伊勢の養子となったと言われるが、その間の事情は伝わってない。14,5歳の頃木板版下彫りを学び、また貸本屋の徒弟となったとも言われ、絵は6歳ころから好んで描いていたと自ら後年述懐している。

しかし、本格的に浮世絵の世界にはいったのは、1778年(安永7)とされ、当時役者絵の大家として知られた藤川春章の門に入ってからである。

画界にデビューしたのは早くもその翌年で、春章の別号旭朗井(きょくろせい)から朗の字をもらって藤川春朗と号し、細判役者絵、『瀬川菊之丞の正宗娘おれん』ほか2図を同時に発表している。

この後、約15年間を藤川派の絵師として、錦絵や黄表紙、洒落本などの挿絵を描いて過ごしたが、1794年(寛政6)中には、藤川派を離れ,琳派の俵谷宗理を襲名して狂歌絵本や摺物などを数多く描いて活躍した。またこのころには戯作も行い、時太郎可候の名で数種の黄発紙を発表している。しかし、98年には宗理号を家元に戻し、北斎を号して独立独歩の作画活動を開始することとなる。

まず、1804年ごろから、13年ごろにかけて読本挿絵のbbb分野に多くの名作を残している。そのなかでもとくに、曲亭馬琴とのコンビによって出版された『新編水滸画伝』などは、この時期を代表するものとして著名である。

14年ごろより、連年数種の作品を発表してきた読本挿絵は急激に減少し、かわって絵の教習ともいえる絵手本に傾注し始める。この方面で最も知られるのは、同年より没後も刊行され続けた『北斎漫画』である。

全巻を通じて約3000余り図が載せられており、まさに絵の百科事典ともいえる性格を持っていて、わが国はむろん古くからヨーロッパにも、「ホクサイスケッチ」とよばれ多大な影響を及ぼしている。ほかにもこの方面では特殊な描法を紹介した絵手本も、銅版画などの制作方法を開陳している。このように、絵手本は北斎晩年記に一貫して出版された

が、その間、文政(1818~50)初年ごろから天保にかけては、風景画の代表作『

富獄三十六景』(46枚)『諸国滝廻り』(全8枚)『諸国名橋覧』(全11枚)などのシリーズが集中的に出版されている。

その後、34年ごろを境として、しだいに肉筆画に傾注するが、43年頃から日課として描いた『日新除魔』と題されれているおびただしい数の獅子の図には、老年期の画風とは思えぬ、みずみずしい数の作品が多数含まれていることに注目される。

 

しかし、不屈の人北斎も病を得て寛永2年4月18日浅草聖天町変照院内に没した。

尚、北斎については数多くの奇行が伝えられ,生涯のうち転居すること93回。また画号を改めること20数度で、その主だった画号だけでも、勝川春朗、宗理、葛飾北斎、画狂人、載斗(たいと)、為一(いいつ)、画狂老人、卍などが知られている。しかし、70年にも及んだ作画生活は終生刻苦勉学に貫かれていて、その情熱は当時の絵師としてはまれにみるところであった。

 

エピソード

・生涯に93回も住居を変えた転居癖  ・画号を改めること20数度

・アメリカの『ライフ』誌の特集「この千年に偉大な業績を挙げた世界の人物100人」に日本人として唯一取り上げられた人。欧米人の目から見た北斎の偉大さは,彼の作品がジャポニズム、さらに印象派をはじめとする西洋近代美術に与えた影響の大きさも考慮してのことである。

・北斎の代表作として知られる「富嶽三十六景」、特にその中の大波が荒れ狂う『神奈川沖波裏』のイメージは日本国内にとどまらず、世界中の映像やグラフィックに用いられ、おそらく世界でもっとも知られる日本の美術作品といっても過言ではない。

・西洋美術に新風を吹き込んだジャポニズムを、誰よりも北斎の作品が励ましたのは何故か「北斎の強みは.一つにはバリエーションの豊富さにある」人物や動植物、風景など対象も多彩なら、版画から肉質画まで幅広い手法を自在にこなす技術もある。

 

 

富嶽三十六景

北斎の代表作として誰もが知る「富嶽三十六景」は、題名に反して総数は四十六図。

「富嶽三十六景」そのものがヒットしたのは、天保初頭に当時ようやく版画に用いられ人気を得つつあった舶来の化学顔料ペル藍(プルシァンブルー)をふんだんに用いた10図をだしたことがきっかけである。それ以前、浮世絵版画で売れ筋のジャンルと言えば人気歌舞伎役者を描いた役者絵か吉原の花魁や芸者、市中で噂の茶屋娘などを描く美人画で、名所絵はまだマイナーな分野であった。歌川広重は「東海道五十三次」歌川国芳は「東都名所」などで北斎のあとを追いかけた。「富嶽三十六景」の特徴は、さまざまな状況や場所に応じて、異なる富士を描き分けたことである。

 

北斎の表現

1 水を凝視する

北斎の風景画作品を支えているものは何か。ペロ藍の多用、透視図法(線遠近法)への理解、あるいは画中の人物の果たす効果的役割、さまざまな要素が考えられるが、間違いなく言えるもののひとつとして、水の描写が挙げられる『水の画家』とも呼ばれるように、水の動きに対する北斎の描写はじつに多彩である。

『神奈川沖波裏』NO2

蟹が爪を広げたような波頭の表現こそ、南蘋派(なんびん)(18世紀前半に来日した清の絵師、沈南蘋の影響を受けて江戸後期に流行した画派。緻密に写実的な花鳥画を得意ジャンルとする絵師が多い)の影響が認められるが、小船を呑み込むばかりに荒れ狂う大波の一瞬をとらえた描写は類例を見ない。カメラの助けを得られない当時の人間の目で見ることは不可能な情景ではあるが、さもありなんと思わせる水の表情を描きこんでいる。

 

2 幾何学で描く

『尾州不二見原』NO10 画面のほぼ真ん中に大きな丸い樽を置いて、その中で仕事をしている職人の後ろに小さく富士が覗いている。北斎の風景画の構図には、このような強烈な印象を与える構図のものが少なくない。北斎とよく比較される歌川広重の風景画にも、晩年のシリーズ「名所江戸百景」には、クローズアップした梅の老木の枝越しに梅園を望む「亀戸梅屋敷」のような大胆な構図のものが散見されるが、北斎の風景画に見られる構図の特異さは、またそれとは異なる性質のものである。広重の近景モチープの大胆なクローズアップ構図が鑑賞者も絵師と同じ立場に立ち、互いに視線を共有しているかのような感覚を抱かせるのに対して、北斎の風景画は、絵師が用意周到に準備して、鑑賞者に呈示したものに、相対して臨んでいるような気持にさせられる。なぜ、そんな気分を起こさせるかといえば、北斎が今日でいえば円や三角形、相似や合同と言った幾何学図形を多用して、絵作りをしているからかもしれない。絵師の「かたち」への強いこだわりが、描かれた風景の上に、さりげなさとは対極にある作為性を感じさせるからである。

作品としては「東都浅艸本願寺」NO11は右手前の東本願寺と遠景富士山が大小の三角形の相似る関係にあるのは明らかである。「甲州石班沢」(かじかさわ)NO15でも、近景の巌頭で投網をあやつる漁師の頭を頂点にした三角形と遠景の富士山の稜線とが相似(かなり合同にちかい)関係にある。この図の画面は。ほぼこの2つの三角形だけでなりたっている。

 

3 宗理風美人

北斎は同時代の他のどの浮世絵師に劣らぬほどの優美で繊細な美人画を描いている。その時期とは上方の琳派の画風を江戸にもたらした俵屋宗理の画号を継いで、二代目の宗理を名乗っていた時代から、葛飾北斎へと改名した後の相当期間で、当時の年号でいえば寛政(1789~1801)後期から文化中頃までの十数年である。

この時期の前半期でいえば喜多川歌麿の全盛期であり、歌麿は女性らしい丸みを帯びた容姿と匂い立つような色香を持った美人画風で一世を風靡し、他の多くの浮世絵師たちの画風にも少なからぬ影響を与えた。 宗理の描く美人画は高い評価を受けていた。

「二美人図」に描かれる女たちは、鼻筋の通った瓜実顔に富士額、小さな口といった気品ある顔立ちに、柳腰というべきしなやかな姿態で、まるで伝統的な日本美人を形容するときのすべての語彙があてはまえるような美の化身とぃつても過言ではない。今日、この時代の北斎の美人画様式は「宗理風美人」と呼ばれている。

 

4 諸国名怪奇覧

江戸時代後期はとかく格付けが好まれる時代であった。相撲の番付けを真似て、さまざまなものを大関、関脇、小結というふうにランクづけした見立て番付けが多く出版されている。『諸国名橋奇欄』は11枚揃い、数としてはきりが良くない。江戸の日本橋や京都の三条大橋が入っていないのは不思議で、出版中断が影響していると思われる。

5 諸国瀧廻り

  前八枚揃い、日本各地の滝を取り上げたシリーズ。北斎の意図は、名所として知られた滝を集大成しようというよりも、滝を口実にして千変万化する水の表情を描き分けることにあつたと思われる。

情 報

・北斎美術館は3階建ての近代的な建築.設計は妹尾氏 一見する価値あり

・8月20日まで『北斎×富士』の開館記念展開催 月曜が休館両国駅から徒歩10分位

・展示場所は狭い。3階が特別展 2階が常設展 チケット購入はセットで 移動はEで

・常設展会場に北斎が絵を描いている場面が復元されている。見続けていると・・・?

・鑑賞日の日時? 鑑賞記の担当は?

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名画鑑賞友の会