今春、元上司(常務)から彼の大学時代先輩の草原克豪著『日米関係からみた昭和の日本』(藤原書店)が「長年の問いに対して一つの解を与えてくれた」とのコメントと共に送られてきた。RSSC専攻科の修了論文『日米開戦から敗戦へ 日本海軍の役割と責任』を彼(父親が元海軍将校)に進呈以来、懇談の都度このテーマで意見交換していた由縁である。
第一章「昭和以前の日米関係」では、日米融和に尽力した渋沢栄一、新渡戸稲造が果たそうとした役割を論じている。新渡戸晩年の1932(昭和7)年には、満州事変勃発後の日米関係悪化修復のため、 日本の立場や政策への理解を求めて全米を 100回以上講演行脚するなど、関係修復に尽力したが、最後のカナダ太平洋会議での日本代表演説後病に倒れ、現地で生涯を閉じた(昭和8年)。
第二章から第四章は、日本の真珠湾攻撃について多角的な分析をしている。日米開戦は、色々な要因(日英同盟破棄、日中戦争、日米通商航海条約廃棄通告、北部仏領インドシナ進駐、日独伊三国同盟、米英蘭の日本資産凍結、南部仏領インドシナ進駐、米対日石油全面停止等)が重なったが、起点かつ主要因は「中国問題」であり、日中戦争の泥沼から早期に抜け出せなかったことであると再確認できた。
日米関係に尽力した新渡戸に対し、宣教師として中国に渡り活動した桜美林学園創立者清水安三を思い出し、10数年振りに『清水安三遺稿集 石ころの生涯』(発行桜美林学園)を再読した。清水は1917年日本組合基督教会派遣の宣教師として中国に渡り、宣教活動の傍ら、1921年北京郊外に貧困家庭の中国人子女を対象に「崇貞平民女子工読学校(崇貞学園)」を設立し、愛隣館という慈善病院も作り、「北京の聖人」とも呼ばれている。
崇貞学園は国籍を超えて門戸を開き、中国、日本、朝鮮半島の子供たちが分け隔てなく学べる学校として発展し、1945年には約700人の生徒が在学した。彼は牧師、学校経営者、ジャーナリストとして、様々な民間活動に取り組み、魯迅、李大シヨウ(中国共産党創立者)、胡適(思想家・外交官)、周作人(魯迅の弟)、張泊苓(教育家・周恩来の恩師)等と親交を深め、1920年~40年代中国における人的ネットワークの主要人物であったとも言える。
彼は文筆活動として多数のレポートや中国論を新聞や雑誌(「讀賣新聞」「北京週報」「我等」「基督教世界」「中央公論」等に投稿している。1927年国民新聞(讀賣新聞)の特派員として蒋介石との単独会見のスクープでは、「蒋介石は私の手を握って、旧知に会うが如く語った。長身の偉丈夫、明るく聡明な顔、その声に熱がある。辞去に際して、彼は「天下為公」と書いてくれた」と記している。
軍部圧力で廃刊させられた「北京週報」(大正13年1月版)では、論説記者として
「私達は国家(自国)のことを超越して外国のために身を献げるものがあっても良いと思う。これが、民族と民族とを親善ならしめる」
と彼の生き方を述べている。終戦を迎え、彼はやむを得ず中国を去り1946年3月に帰国したが、その2ケ月後の5月には東京都町田市に桜美林学園を創立し、現在に至っている。崇貞学園はその後変遷を経て現在も北京陳経綸中学 として 存続している 。
30数年の電機メーカー勤務から転職していた私は、縁あって桜美林大学で65歳定年(同年RSSC入学)までの5年間、学生の進路支援業務に携わった。毎日の朝礼での聖書講話と讃美歌斉唱等日々新鮮な気持ちで、社会に巣立とうとしている若者たちと接する充実した日々を過ごした。
同僚の方々との交流は今でも継続している。入職時渡された同書であったが今回再読して、あらためて清水安三という人物を再認識する良い機会を得た。
(7期生 関根重明)
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