暮らしにゆとりができたら、歯を治したいと思っていた。貴重なお金を使うなら服飾品よりこっち。今後の健康と美容のために歯は最重要、と言っても過言ではないと思っている。とはいえ、できる範囲でね。高価だし、できないものはできないの。
そうわりきって、少し離れた自費診療の歯科に通っている。

ホワイトニングの時は楽しいだけだった。それが、かぶせた部分のやり直しをする段では苦行に変わった。過去のつけを払うような大工事になることがある。歯には見える部分の二倍ぐらいの深さの根っこがあり、その最深部の治療は面倒で時間がかかるのに保険の点数が低いため、十分なされないことがよくあるらしい。私が前に治療したところもそうで、レントゲンを撮ると根の下に膿が写っているという。放っておくと骨を溶かすこともあると聞き、今は何回もかけて歯根の治療をしているところだ。

この歯科医院では、一気に一時間ぐらいやる。その間、私は緊張、恐怖、安堵を繰り返す感覚器官になっている。柔らかいタオルの下で目を閉じていると、去年の秋の庭の工事が思い出される。そこにも自然物と人工物が両方あって、砕かれ切られ取られていった。
今は私が工事現場だ。生きた物が実は少ないなんて、あなたたちより残念な庭。

歯の治療は理性で耐えるものだ。幼児は無理、犬も無理だな。じっとして早く終わった方がいい。じたばたして変な所に当たればなお痛い。やり直しになったらとんでもない。
だからって、終わったらチョコ買ってあげるからね、はちがうだろう。誤った愛情だ。でも、それをねだっていた。そうじゃなきゃ承知しなかったんだな、私は。愚かなことだ。不二家ルックチョコレートとかバナナとかアイスとかあんみつ、最高のごほうびだった。
私の子ども時代の通奏低音は、悲しいかな、歯医者通いだ。甘いもの好きで歯のおそうじは足りなかったから、天罰だと言われれば確かにそうだった。でも、歯列矯正をしていたからむずかしかったのだ。当時は珍しくて、親はとても無理をしてくれた。あんなに何年も痛い思いをしなければできないものだったのか、よくわからない。
柔らかいタオルの下で、遠い記憶も立ち昇ってくる。

それでも、私は17世紀の人でなくて本当によかった。ろくな治療法もないのに砂糖を知ったら地獄じゃないか。数年前、「砂糖の誘惑、その甘くない現実」という記事を読んで、衝撃を受けた(『ナショナル・ジオグラフィック』2013年8月号)。「17世紀半ばになると、もはや砂糖は~中産階級~にも手が届く必需品になった。」
本で知った人の中で、私が最も影響を受けたのはブレーズ・パスカルだ。彼が歯痛で苦しんだことは知っていた(『学研版 算数おもしろ大事典』)。彼のことを考えすぎて人生をこじらせた。呪縛を解くために立教に来たと言ってもいいくらいだ。そして、生き延びて還暦を迎え、気がついたこともある。言ってみれば、根っこの視点。 私達の共通点は、人の中の搾取する側にいるということだった。そして、甘いものの魅力は自制心よりも大きい。
柔らかいタオルの下で、近くて遠い彼に話しかけている。

この春、木瓜の花が咲いた。枯れたように見えていたが、見事に花を開いてくれた。守れなかった草木たちを悼む。でも、木瓜が生きたなら、前を向く。
これは私の小さい頃から家にあり、三度の引越しを経て、今の場所に植えられたものだ。
本当に、本当のこと? 古いアルバムを探した。
木瓜が咲いている、一緒に写真を撮ってよ、と頼んだ。
それは、母に? 弟に?
あった。
五十年前の写真は、今と同じ顔をしていた。

ひとめぐり 根っこつながり 花令和
(7期 安孫子)

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