電車が小田原駅に近づいてくると小田原城が目に入って来る。ああ、小田原に着いたんだなあと思う。特に旅行から帰って来た時や、現役時代時間外勤務で帰宅が遅くなった時には何となくほっとした気分になる。自分の周りの人たちに聞いてみても表現こそ違え同じような話をする。それほど私たち小田原の人たちの日常風景になじんでいる小田原城。その小田原城のことについて少しだけ話をしようと思う。昨年の大河ドラマ「真田丸」をご覧になった方は数週間にわたり豊臣秀吉VS小田原北条氏の攻防が放送されたのを記憶されているだろう。
1590年(天正18)4月豊臣秀吉は21万とも22万とも言われる大軍を組織し小田原に攻め寄せてきた。抵抗虚しく関八州の覇者北条氏は同年7月降伏し小田原城は明け渡されて、その後徳川氏の城として後世に残っていくことになる。そして小田原城は戦国時代的城郭から近世的城郭へと姿を変えていくことになる。ということで、私たちが現在目にしている小田原城は北条氏のお城ではない。史跡として江戸時代の姿に戻そうと整備されたものである。歴史の常で敗者の歴史は時の流れとともに埋もれてしまうのである。
しかし、全く痕跡が残らないかと言えば当然そんなことはなく小田原にも北条氏時代の痕跡が所々に残されている。その一つに「小峰御鐘ノ台大堀切(こみねおかねのだい おおほりきり)」がある。豊臣秀吉の大軍に対し北条氏は小田原城に籠城して迎え撃つ戦術をとった。そのために築き上げたのが小田原城下をぐるっと囲む全長9㎞にも及ぶ「総構(そうがま)え」である。その総構えの遺構がもっとも良く残されているのが小峯御鐘ノ台大堀切である。この堀切は本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して構築されたものである。小田原城の弱点は山側にあると感じた北条氏が堅固に築き上げたものであるが、東堀、中堀、西側にある西堀の三本の空堀で構成されている。当時の様子が最も良く残っている東堀は幅が約20 ~ 30m、深さは土塁の頂上から約12m あり、堀の法面は50 度という急な勾配で、空堀としては全国的にも最大規模のものといえる。堀は石垣ではなく関東ローム層を固めたものであるが、実際に堀底や土塁上から眺めてみるとこの攻略は一筋縄ではいかないだろうと思いをはせることができる。一説によれば、こんな堀と土塁を築き上げたのを知った豊臣秀吉は自軍の犠牲を少なくするために力攻めはせず包囲作戦をとったとも言われている。
桜の季節ともなると日本さくらの名所百選にも選ばれている小田原城には大勢の花見客がやって来る。350本とも言われるソメイヨシノが競うように咲き誇る姿は壮観である。桜と小田原城を見学した後、少しだけ足を伸ばせば小峰御鐘ノ台大堀切の遺構を見学することができる。そこに立って小田原北条氏の昔を偲ぶのも歴史への一興かもしれない。
小田原駅西口(新幹線側)から歩き始め、わが母校小田原高校に向かう通学路通称100段坂を通り、わが母校を左に見ながらさらに進んでいくと到着する。出発から20分ほどで到着するだろう。小田原駅へ来たら小田原城天守閣へ登るもよし、かまぼこを買うのもよし、でも歴史に関心のある方には是非とも訪れていただきたいもう一つの小田原城である。(7期生:高橋 豊房)
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