<小澤さくら-小澤征爾のおふくろさん-:後編>
敗戦の翌年、父・開作が秘蔵のカメラ・「ライカ」を売って横浜白楽の親戚にあったピアノを買い、リヤカーに積んで徒歩で白楽から立川まで征爾の二人の兄が、3日目には父開作も加わって3日間かかって自宅まで運んだ。そのピアノで11歳だった征爾の音楽才能は大きく花開くことになる。
住まいのあった立川には米軍基地が置かれ風紀や治安が悪化したことから、一家は征爾が小学6年生の時に神奈川県の金田村(東名高速・大井松田I.C.近く)に転居した。帰国後父開作には定職が無くこの引っ越しで蓄えも無くなり母さくらがネクタイ織の内職と田畑での農作業や質屋通いで一家の口をしのぐ日々で、さくらは「この時期どうして生活できていたのか記憶にない」と述べている。
しかし征爾の中学進学は将来を考えて「お金もかかるが貧しいながらもなんとかなるだろう」と自由な校風の成城学園を選択する。征爾は金田村から片道2時間かけて通学するのだが「毎日が楽しくてしょうがない」といったふうだった。中学ではラクビーに熱中、同時に日本を代表するピアニスト豊増昇に師事、ピアニストになることを目指して休まずレッスンに通った。ところが中学3年の時、ラクビーの試合で両手の人差し指を骨折してピアニストになる夢は破れるのだが、豊増の「指揮者というのがあるよ」の一言で母さくらの親戚「おとらおばさん」の二男で指揮者の斎藤秀雄に一人で会いに行き弟子入りをする。斎藤は「来年桐朋女子高に音楽科を新設するので来なさい。それまでは山本直純(斎藤秀雄門下の兄弟子)に教わるように」と指示、成城学園高校に通学しながら3歳年上の山本直純が週1ペースで小澤の家に出向き個人指導。1年後改めて桐朋学園女子高校音楽科に入学。高校卒業後は同年に開学した桐朋学園短期大学に入学、短大卒業後は斎藤秀雄の助手をしながら勉強を続け、冒頭に記したパリへ武者修行に出かける。
小澤征爾が大成した鍵は母さくらの中学選択にある。征爾が中学に進学するとき一家は金田村に住んでおり経済的には赤貧の状態だったにもかかわらず、地元の中学ではなく学費が高く通学に往復4時間もかかる成城学園を選択した判断は尋常ではない。しかし成城学園の教育環境、人間味豊かな学友等々、やんちゃで明るく前向きな人間性と相まって征爾はこの中学時代に大きく飛躍する力を身に着けた。学費の滞納は常習で、ピアノを師事した豊増昇のレッスン料も滞りがちだったがこちらは豊増がおおらかで「まあ、いいですよ」と救われた。さくらはラクビーに熱中する征爾のケガだけは心配していたのだが案の定指を骨折、しかしその災いから指揮者の道に進む。
世に「教育ママ(子供べったり)」と言われる母親は数多くいるが、さくらは教育の場(環境)の選択を適格に判断し、判断した後は子供の自主性に任せて見守るだけで口も手も出さない。これがすごい。さくらは貧乏生活を振り返って「でも、我が家には何か明るさがあったみたいです。それが人間にとって一番大切なことなのです。それがあったからやってこれたのです。」と回顧している。小澤征爾は、本人が「おふくろ」と呼ぶ知的で明るく前向き思考で笑顔の絶えない頑張り母さん「さくら」の珠玉の作品である。
最近では24時間365日子供に付き添い、それが子供のため、と子供が大人になっても子離れせず子供も親離れしない母子が多いが、それは子育てではなく「子供は母親の所有物」である域を出ない。「でも、羽生結弦はお母さんのおかげで世界の結弦になったわよ!結婚しても離婚してもお母さんと一緒!」と世の母親に言われそうだが…。
小澤征爾の大成に大きく寄与した人として「母・さくら」に加えて「斎藤秀雄」と「山本直純」を忘れてはならない。次回「その3」でこの二人について述べたい。(7期生 土谷) -事務局:12/21掲載予定-
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