コロナ騒ぎが始まる前年のことだった。旅に出たくなった。3日間予定を空けたのに行きたいところがない。前々日になって新聞の古い切り抜きを偶然見つけた。「満蒙開拓平和記念館開館」。そうだ、行先は決まり!初日の宿だけ予約する。早朝の鈍行で甲府の城址と印伝会館に立ち寄り、さらに飯田線から中央アルプスの雪山を堪能して昼神温泉へ。日本一の星空と鯉の甘露煮のお出迎えで秘境感満開である。

5年前に建てられた記念館は複雑な地形の崖下にあった。私の地元で開拓団の映画会があったことからも関心をもっていたので、3時間をかけて全資料を読んだ。見学者は時折グループがさぁっと通り過ぎるだけである。運営の難しさが見て取れた。

満蒙開拓平和記念館


さて、私たちの生まれる前のこと、「1932年満州国建国」と年表にある。ソ満国境での人間の盾の必要性と人減らしを目的に、移民が計られた。試験的に武装農民、次に集団開拓団、さらに青少年義勇軍、全国から27万人が送り込まれた。長野県はダントツの3万7千人。中でも記念館のある下伊那が最多だった。ただでさえ耕地が少ないうえ、恐慌により蚕糸価格が暴落した。県が元々海外移住に積極的だったという事情も一因である。

農家の次男三男をターゲットに「耕作地は準備する。20町歩の自作農になれる」との宣伝文句と、有力者や教師の再三の勧誘に乗せられて…。しかし、与えられたのは現地の人々が開拓した土地を強制的に奪ったものだった。そのうえ彼らを使用人にして、恨みを買うことになった。しかも酷寒の地ゆえ、生活は凄惨を極めた。

戦争末期、ソ連軍の侵攻の前に軍は先に逃げ、民間人への国の方針は「現地に留まり生き延びよ」であった。終戦時、在満155万人。民間人のGHQへの直訴により引き揚げが始まったのは翌年5月のことである。全生活を畳んで渡満したため、貧しい村に居場所はなく「満州乞食」と迷惑がられた。食糧増産と引き揚げ者受け入れのために国が興した開拓事業に従い、さらに過酷な地で一から生活を始めた人たちも多い。キャベツで有名な嬬恋もその一例である。

私たちがリアルタイムで知るところとなった残留孤児の肉親捜しは1973年、この記念館に土地を提供した隣地の住職が尽力したことを知った。自身、教師として終戦の年の5月に渡満し、妻と娘を失っている。死んだと諦めていた娘の一人には再会できたが、養父母や6人の子供がいる家庭を思いやり、帰郷を勧めることができなかったという。

たった13年で消滅した満州国に関して、私たちは学校で教えてもらえなかった。私にとって衝撃的だったのは、開拓民は国策に蹂躙された犠牲者だと思っていたが、実は満州侵略の加害者でもあったということである。ここにきて、70年以上も経って語られ始めた二度と起こってはならない問題が、次々とクローズアップされている。戦争体験者の多くは口を噤み、社会も知っていながら知ろうとしてこなかったことが多すぎる。

悲しい歴史にふれたあとは天竜峡舟下りと飯田での満開の桜の銘木めぐりで締めくくったものの、過去を知る旅は重かった。(7期生 岩澤延枝)

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