昨年からの新型コロナ感染症の拡大により、行動を制限される生活が続いている。そんな最中に母を見送った。

両親の遠距離介護を始めてから15年余り、これまで東京―札幌間を何度往復したことだろうか。4年前に父が亡くなってから、週の半分以上はディサービスを利用しながら住み慣れた自宅にて自由気ままに過ごしていた母は、重症筋無力症の診断を受けるも近くに住む姉や従姉妹のサポートを得て93歳まで自宅で暮らしていた。

昨年4月に腹痛を訴えてから入院し、治療を終えて回復期のリハビリが出来る病院へ転院した。その間、新型コロナ感染症拡大防止により病院の面会は規制されていたこともあり東京からの移動は自粛。また、自身の手術もあったことから暫く母の顔を見に行くことが出来ない日が続いていた。
感染者数が下火になった10月、東京でもGO TO キャンペーンを実施された頃に面会が再開となり、1週間に1回だけ10分と制限されたたが可能になった。(実際は姉と半々の持ち時間で、面会時間に非常に厳しかった)

その年のお正月、おみくじに見立てた祝箸で大大大吉を当て上機嫌に新年への期待を抱く母だったが、病室には入れ歯を外して横たわる年相応の老婆となっていた。9ヶ月振りに会った私の顔を見るなり
「いつ来たの?」
「今朝、○時の便で来たよ」
「飛行機は、込んでいなかった?」といつもの会話。
「痛い所は、ない?」
「どこも痛くない」
内臓疾患からの熱発が度々あり、身体の動作が不自由となっているのではと気になり、
「リハビリは、ちゃんとやっているの?」と尋ねた。
「・・・・」
補聴器を外していたので、良く聞こえていない?
(前段の会話は、スムーズだったのに聞こていない?ふり?)

声の張りやそんな様子は、自宅へ戻る事が出来るかもしれない。Drから心臓は丈夫だと言われていたこともあり、退院後のケアを検討しなければ・・・。これは「長期戦になるかも?」との思いがよぎる。

短時間の面会に、あれやこれやと問い掛けする私を横に、
「悔いは御座いません」と母は潔く言い切った。
以前から、何も思い残す事がないと言っていたが、余りにも唐突な言葉に、返す言葉が見つからず、「また来るね」と握手をして、次に待つ姉へと引き継いだ。それが、母からの最後の言葉となった。

母は生前に「最後は、どの様になるのだろうか」と、ポツリと何度も聞いてきた。ピンピンころりと、朝目覚めないでそのまま逝ってしまうのが理想だと語り、人生「晩年が大事」だと持論を唱えていた母。
最後まで酸素マスクを使用することもなく、12月に日帰りで様子を見舞った数時間後に旅立った。

自宅で葬儀を行う準備中での事、何気なく開けた引出しには93歳を迎えた3月1日にしたためていたと思われる手紙が何枚も入っていた。それは、この状況禍の中で葬儀に参列して下さった母の兄弟姉妹・甥や姪へお渡ししたが、何事にも準備を欠かさない人だっただけに、娘ながら「あっぱれ」な終焉だと感じた。

先日行われた橋本正明先生のオンライン講義、 夕映えのときを迎えて「老いることを考えて」では、難病ALSの方のお話しもあり、自分が難病となった場合に果たして自らの意志を貫く生き方ができるのか。身体機能が低下し、全てを誰かに依存しなければならないとしたら・・・。天寿を全うする生き方とは、どの様な事なのか。

生きている延長線上にある老いについての問い掛けは、母の死とオーバーラップし心に響く最終講義だった。

誰でもが、いつかは迎える日であるが、その日が訪れるまで自問自答し自身を見つめる生き方を、時間を得ている限り探り続けるのだろう。

百ヶ日の弔いを終え、春のお彼岸を迎える。まだ雪残る北国の春は遅く、5月頃にやっと桜が咲く。満開に桜舞う頃、母は大地になる。「後は、良きに計らうね。」との約束に、上出来、上出来と言ってくれるのだろうか。
(7期 梅本)

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