〝この坂を 越えたなら しあわせが 待っている”  歌手都はるみが『夫婦坂』を昭和59年のNHK紅白歌合戦で熱唱をした時、私がちょうど四十路を超えた頃であった。

その年の暮れ、入社以来長年担当していた裏方の仕事から初めて営業の一線に配属替えになった。やがてバブル景気の大波が押し寄せ、国中が上り坂に浮かれることになる。行け行けどんどんと業容は拡大し、顧客や業界の付き合いは連日深夜まで、週末はゴルフと交際費は使い放題の日々であった。海外の出張から帰って翌日はまた別の出張に出るなどと、年間90日も家を空けることもあった。子ども達もいつの間にか大学生になっていた。一人での子育てに疲れた家内が心身の病に苦しんでいたのにもほとんど気づいていなかった。

一転して50歳代は下りの坂道の連続であった。バブルがはじけてリストラのあらしが吹き荒れ、社外に去った仲間も少なくなかった。とうとうある期の業績判断を誤ったことによる経営責任を取って子会社送りという、まさかの坂道を転げ落ちる境遇も味わった。

還暦の60歳を機に一転して福岡市のある短期大学で教職の立場を得た。この歳に至って初めての単身赴任、企業とは組織文化の違う教育の世界、ともあれかねがね考えていた人を育てることに次の生きがいを求めた。最初は平教員、こんなにも自由時間があって幸せなことだと思った。しかし、専任教員10人の小所帯、2年後に学科長を命じられた。会社務めの習性か、マネジメントの仕事はいやではなかった。それから短期大学部長まで都合8年、研究はほどほどに再びヒト・モノ・カネに関ることとなった。

ほぼ隔週の週末には藤沢市の自宅に戻ることにしていた。日曜日は家内が朝から惣菜の調理にかかり2週間分の食材をパックに詰め、月曜日の早朝に羽田から福岡に戻るパターンが続いた。この10年間この道も決して平坦ではなかったが、望んでいた大学教員の職に就いて古希まで、自分にとっては日の当たる緩やかな坂道だった。

70歳になって福岡から自宅へ戻るわけだが、それまでフルタイムで働いていたペースを一気に止める自信がなかった。RSSCに入学して、新しい仲間と交流ができることは願ってもない機会であった。講義もさることながらサポートセンターの活動は特に力が入った。

しかし、この間に家内の万喜子は次々と厳しい現実を乗り越えなければならなかった。主人が単身4年目の夏に母が夏休みに滞在していた我が家で急に倒れて亡くなり、10年目の秋には5歳下の弟が短い療養の末にガンで、一昨年の2月には父親が100歳で天寿を全うした。京都の南にある実家の家・屋敷は、亡くなった弟の嫁と長男が相続し、いよいよ彼女には帰る家が亡くなった。

主人の第一線からのリタイアと前後して親族の死、孫たちの成長など、彼女は心にポッカリと穴が空いたのであろう。亡父の遺産整理の頃から体調の不調、不眠・不安を訴え出した。何でもない事に焦り、時に塞込み、私が用事で外出することに強い抵抗感を募らせた。数軒の専門医を尋ねても内臓に異常は見つからず老人性ウツと診断され、困ったことになったと思案の日々が続いた。2軒目の心療内科で出会った医師の指導と投薬で半年余を経てこの頃ようやく落ち着きを取り戻しつつあるが、数年前に比べて彼女の体力・気力は一段と低下している。

同時にこの10月に後期高齢者の仲間入りをする自分自身も耳目の力が落ち、脚力の衰えを感じている。何のことはない、気づかないうちに誰もが通る坂道を下って次の踊り場に差し掛かっているだけなのであろう。ラジオ体操に自己流ストレッチと夕方の散歩で体力の維持に努めてはいるが、ささやかな抵抗なのかもしれない。この坂を越えたならどんな幸せが待っているのであろうか。(7期生 清水 誠)

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