RSSC 名画鑑賞の会 事前学習資料 「ロートレック人と作品」
2017.10.17 於:立教松本楼 担当:齋藤恭子

生涯
 南仏のアルビで生まれる。トゥールズ=ロートレックの生家は、フランスの名家であり、伯爵家である。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる。両親はいとこ同士で、父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど、変わり者で有名であった。

☞  詳細はウィキペディア「アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック」を参照ください。

 トゥールズ=ロートレックは、幼少時には「小さな宝石(プティ・ビジュー、仏:Petit Bijou)」と呼ばれて家中から可愛がられて育った。しかし弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳の時には母親と共にパリに住まうようになった。そこで絵を描き始めた。すぐに母親は彼の才能を見いだし、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになった。しかし、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したために脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であり、現代の医学者は、この症状を骨粗鬆症や骨形成不全といった遺伝子疾患と考えている。病気により、アルビに戻ったトゥールズ=ロートレックは活動を制限され、父親からは疎まれるようになり、孤独な青春時代を送った。

 1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、間もなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は同地で活動するようになった。なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。 絵画モデルであったマリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(後のシュザンヌ・ヴァラドン)のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。彼女をシュザンヌと呼び始めたのもトゥールズ=ロートレックである。

 画家自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリの「ムーラン・ルージュ(赤い風車、仏:Moulin Rouge)」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、デカダンな生活を送った。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績で美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男(プティ・トム、仏:Petit Homme)、偉大なる芸術家(グラン・タルティスト、仏:Grand Artiste)」と形容される。また、脚の不自由だった彼は、しばしば疾走 する馬の絵を描いている。彼のポスターやリト グラフは日本美術から強い影響を受けており、 自身のイニシャルを漢字のようにアレンジした サインも用いた。アブサンなどの長年の飲酒により体を壊した上、梅毒も患ってトゥールズ=ロートレックは次第に衰弱していった。

 家族によってサナトリウムに短期間、強制入院させられた後、友人らと旅行に出た後の1901年8月20日にパリを引き払って母親のもとへ行き、同9月9日、ジロンド県のサンアンドレ=ドゥ=ボワ近郊にある母の邸宅、マルメロ城で両親に看取られ脳出血で死去した。最後の言葉は、彼が障碍を持つようになってから彼を蔑み、金銭は与えたが彼の絵を決して認めなかった父親に対して発した「Le viex con!(馬鹿な年寄りめ!という意)」だった。36歳没。城の近くのヴェルドレに埋葬された。

 死後、彼の作品は父親の意向により、母親とパリでの少年時代からの親友で画商のモーリス・ジョワイヤンによって管理されることとなった。彼等によって1992年、アルビにトゥールズ=ロートレック美術館が設立された。ジョワイヤンはトゥールズ=ロートレックの伝記及び、美食家であり料理人やパーティーの有能な有能なホストだった彼の一面を紹介した『独身モモ氏の料理法』といった本を著した。現在、『独身モモ氏の料理法』のレシピはアルビの多くのレストランで供されている。生家のボスク城は親しい間柄だった母方の従兄弟ガブリエル・タビエ・ド・セレイランが相続し、後にその末裔の女性によって博物館として管理されるようになった。没したマルメロ城はワインの醸造で知られている。なお、トゥールズ=ロートレックを扱った映画としては1952年のアメリカ映画『赤い風車』、1999年のフランス映画『葡萄朱色の人生』などがある。

☞ 『パリ・グラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展』はこちらを参照ください。

アール・ヌーヴォー
 アール・ヌヴォー(フランス語:Art Nouveau)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる、従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては、建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。
第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。しかし、1960年代のアメリカ合衆国でアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。ブリュッセルやリガ歴史地区(ラトビア共和国の首都リガの旧市街と新市街が該当)のアール・ヌヴォー建築群は世界遺産に指定されている。

発表者感想
 富裕な環境に生まれながら、身体上の障碍から、父親からの愛情を受けられなかったロートレック。デカダンな生活の末に、短命にして亡くなったロートレック。彼の娼婦や踊り子たちに向ける眼差しはどこまでも優しいように思える。ところで、ロートレックのことを調べながら、同時に、イギリスの画家、オーブリー・ビアズリーのことが私の脳裏から離れなかった。二人は国も出自も異なるし、直接の接触はおそらくはなかった。しかし、その作品の新しい美しさや、日本の浮世絵からの影響を強く受けていることや、グラフィックデザインの美術的価値を高めたことなどから、多くの共通点を見いだすように思う。同時代に生き、アール・ヌーヴォーの寵児となった二人。どちらにも同様に強い魅力を改めて感じたのであった。

*資料引用はウィキペディア「アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック」

この記事の投稿者

八期生編集チーム