寒の時期に仕込んだ我が家の味噌は時間の経過と共に少しずつではあるが変化をとげていた。夏前の天地返し(味噌を上部と下部を入れ替えることによって、発酵が均一化され活発化する)からは、大豆の色は淡い褐色から濃い褐色に変わり、しっかりと米の形を保っていた米こうじがまるで花が咲き、今にも踊り出し始めるような状態に変化していた。見ているうちに、こうじを「麹」ではなく、江戸時代末期に日本人が作った国字である「糀」の漢字で表しているのが納得できた。味噌をさらに熟成するために冷暗所(私は冷蔵庫)で保管することにした。

9月になったので、味噌が食卓を賑わしてくれるようになった証を確かめみるために蓋を開けてみることにした。その瞬間、味噌が持つ独特の香りが私の鼻をくすぐり始めた。発酵が活性化して色の変化以上に香りも深みを増していたのである。食いしんぼの私は、我慢できずに何が何でも口に入れて確かめたい気持ちになり、スプーンに少し取り、味わうことにした。まだ、塩味に丸みが若干足りないような気がしたが、時間が旨味を増してくれる発酵食品のありがたさに心から感謝した。これこそが手前味噌の世界だ!

今年の味噌の香りを楽しんでいたのに大失敗の記憶が甦ってきた。小学生高学年の時のことである。母と祖母そして姉がいたので、家の手伝いをする必要性があまりなかった(本当は、しなかったが正しい)。当然であるが料理をすることがなかったのに、ある日父の昼食を私が作ることになり、台所で悪戦苦闘している時の記憶である。母は、大根を向こう側にある顔までが見えるように剥いてから、細く切っていた。まるで、刺身に添えられている大根のつま(けん)のようであった。その結果、味噌汁の大根はとろけるような柔らかさになっていた。

私は包丁を上手にまだ扱うことができなかったのに、無謀にも大根の味噌汁に挑戦することにした。大根は「マッチ棒」のような太さの細切りになった。千六本としては大成功であるが、母の切り方とは雲泥の差である。これ以上に細くすることもできずに、手の動きは完全に止まってしまった。その時、作戦変更とばかりに鰹節で丁寧にだしをとり、「マッチ棒」の太さの大根を煮ることから始めた。大根はやや透明感を帯びると同時に、独特の匂いを出すようになっていた。この匂いは、今なら抗酸化作用も抗がん作用もあり大事だと思うが、その時は特有の匂いを消そうとして味噌を溶き入れ完成させてしまった。大根が柔らかくなる前に加熱を止めてしまったのである。

父と二人だけの食卓に、どうにか「大根の味噌汁」をならべることができた。煮物の残り物や目玉焼きを添え、父と食べ始めることができホッとしていると、味噌汁の大根はしっかりとした歯ごたえを残したままであった。大根の歯ごたえ以上に、私の心の中は音をたてながら、がちがちと固まっていくのがわかった。その時、寡黙な父が「節子が作る料理は美味しい!」と突然言い始めた。母の味噌汁に近づけなかったことに悔しさを滲ませていたのがわかり、慰めだったのかもしれない。でもその言葉は、固まった心を温かく溶かし始めてくれたことは確かであった。

今年の味噌の香りは、幼いときの記憶だけではなく、父の気持ちまで思い出してくれた。母や姉と同じようにはできないが、小さな手で大根を薄く剥こうとしている姿を大事にしてくれていたのである。父の一言があり、当時の「暮らしの手帖」を見ながらお菓子や洋風のおかずを作るように変わっていた。そして小学生の時には想像もできなかった「家政学部」への進学を決めることになったのも、父の言葉があったのかもしれない。食欲の秋になったら夫だけではなく、姉の家族や義父母達の家族にも味噌を食してもらい、香りや味を楽しんでもらいたいと思っている。(7期生 金子)

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