古いものこそ新しい:学ぶ楽しみ
渡辺信二(RSSC専攻科ゼミ担当教授)
RSSCへの入学者数は、のべで1500名を超え、同窓会メンバーも、1200名前後と聞きます。物故された方もいらっしゃるでしょうが、今年2024年度の入学者が17期目となりますので、第1期からRSSCに関わってきた者としては、非常に感慨深いものがあります。
このRSSCが100期まで続くかどうかはわかりませんけれど、厚生労働省「簡易生命表」を見ると、2023年(令和5年)現在、平均寿命は男性がほぼ81歳、女 性がほぼ87歳。平均余命は、例えば60歳で見ると、男性がほぼ23年、女性がほぼ29年です。これは平均ですから、多分、現在の同窓会メンバーの方は、その1割から2割くらいが、100歳を超える長生きとなるでしょうし、そのうち更に2割くらいは、健康長寿のモデルと言える百寿者(センテナリアン:100歳)や超百寿者(スーパーセンテナリアン:105歳以上)になるのではないかと推測しています。すると、「第2の還暦」120歳も、視野に入ってきそうです。
さて、どうしましょう。
そう、これからどうするかのかを考える、一種モラトリアムの期間が、このRSSCでした。入学 以前以上に現実的に、じぶんのセカンドステージを眺望し設計する必要が出てきました。でも、それこそが、自由な選択の世界、個人の決断の世界です。しかも、これは、すでに同窓会メンバーとなっている皆さんは、実体験していることでしょう。それぞれの決断で、例えば、引退して悠々自適の生活を送る方、ヴォランティアに第二の人生を捧げる方、リスキリングの訓練を経て新しい分野に挑戦する方、NPOを含めて新しい事業に取り組む方など、これからも、さまざまな選択と 自由の広がる世界が、わたしたちを待っています。
ただ、たとえ120歳ではないにしろ、これから更に数10年を生きる覚悟が必要だということで すから、中には、ため息が出る人もいるかもしれません。当然、体力の衰えや老いが伴いますし、途中、大病の可能性も否定できません。また、たとえ、経済的・社会的・体力的に不安が少なくても、揺蕩う不安は、形而下的なことだけではありません。眼前に広がる第二の人生には、とりわけ、「死」がちらつき始めます。「死」は、わたしたちの定めです。みな死ぬのなら、なぜ、生まれてくる必要があるのですか、あるいは、周囲の人たちの死は、かなりの精神的・心理的打撃ですが、一体、どう耐えるのでしょうか、といった問いが生じます。
確かに今、「就活」ならぬ「終活」や「エンディングノート」がブームです。これは、人生を終える「その時」を迎えるための準備活動ですが、残された家族に迷惑をかけないためにという目 的で始める方が多いと聞きます。でも、実際には、「残された人生をどう生きるか」、「死とはなにか」、「じぶんは何のために生きているのか」といったじぶんの死生観を問うきっかけにな ります。死を見つめて生きる、死を忘れるな、 “Memento Mori”は古くから、わたしたち人間のテーマでした。わたしたちは、「死」に関する疑問に取り組み、考えあぐね、宗教家や哲学者た ちに教えを乞いました。確かに、様々な死生観が展開されてきています。これは、人間の永遠の テーマであり、リベラルアーツが問う課題でも、最重要なものの一つです。 宗教書にあたってみれば、例えば聖書には、<神が言われた「私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」こうして、人の一生は120年となった>(「創世 1 記」6:3)とあります。まさしく、第二の還暦が人間の寿命であり、肉体の死後、帰天するということでしょう。
ブッダの言葉『ダンマパダ』(大蔵出版 167)には、<不死の境地を見ずして百年生きるより、不死の境地を見通して一日生きる方が優る>とある。ただ百年生きれば良いのではない。この世は、森羅万象・山川草木・一切衆生が輪廻流転を繰り返し、苦悩と煩悶の世界だが、ブッダは、そうした世界を超えた、全き安らぎの境地の存在と、そこに至る道を「不死の境地」として示した。それは、いわば、現世における浄土の発見です。この悟りによって、自分の生が大きな意味をもつことになります。浄土を知れば、この世の美しさがより身に沁みてきます。孔子の場合は、弟子の子路が「死」について尋ねたとき、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」(『論語』「先進11・11」)と答えています。意味は、「まだ生きることについてよく分かっていないのに、死についてなど分かるはずもない」という意味ですが、これは、今、生きることを考える方が重要だと解釈されています。ちなみに、江戸時代末期の儒学者佐藤一斎は「老いて学べ ば、則ち死して朽ちず」と言います。彼にとって、学び続けることが、人の道なのでしょう。
老子の死生観を借りるならば、全ては、天地自然の理(自然の摂理)に委ねるしかありませ ん。人間がどうだこうだと考え、理論づけても、それを言葉で説明するのは不遜だし難しい。自然がそうあるように、わたしたちもそうあれば良い。「無為自然(『老子』37)」、人はただ自然に任せて生きる。逆に言えば、常に「いつ死が訪れても良い」と覚悟を決め、生に執着せず、一 日一にちを楽しむ。人生とは、「入生出死」(『老子』50)、宇宙の気が、ある肉体に入り、しばしそこに留まり、また、そこから出てゆくだけです。「死があるからこそ今が楽しい」という境地が理想でしょう。
ここで再読した先人たちの教えは、皆、紀元前のものであり、とても古いのですが、でも、依 然として新しい。なお、わたしたちが学ぶべきことがたくさん含蓄されています。 第二の人生セカンドステージを、なお、より良く、より深く、さらにはより潔く生きるために、時には、こうした先人たちの知恵に接して何かしら学んでみるのも、勉強になります。とりわけ、RSSCにおいてリベラルアーツに接した者にとって、これは密かな楽しみでしょう。ええ、なかなかのものがあります。
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