「新庄先生の旦那さんが亡くなった。デモから帰るとすぐに」の一報が、小さな町を駆け巡ったのは、1960年6月17日のことだった。新庄則子先生は、前年、小学校に赴任した二十代の女性で、飾らない人柄は、めったに教師を褒めない私の母でさえ好感を持った。夫も教員、お子さんはまだ二歳にもなっていなかった。そして、2年2組の私の担任だった。

6月15日、国会突入デモで女子大生樺美智子さんが亡くなり、メディアはその死因を究明していた。いやが上にも町の人々は樺さんと先生の夫の訃報を重ね合わせ、興奮気味だった。葬儀のための担任不在は、私たち7歳の子どもを動揺させ、大人の興奮をたやすく伝播させた。私たちの関心は先生の夫のことだった。大人たちの話を一言一句聞き漏らすまいと耳をすました私たちは、腹話術師の膝の上に乗る人形になった。姿かたちは子どもだが、しゃべっているのは大人である。

町の声は、突然夫を亡くし、幼い子どもを抱えて残された先生に同情的だった。しかし、もっともらしく語られる噂には、他人の不幸を面白がったり反感も含んでいた。「先生の夫は樺さんと一緒に国会突入した」「警察が雇った暴力団の袋叩きにあった」「警棒には釘が仕込まれて、ひどいケガだってさ」「組合活動なんかするから」「デモに行かなければ死なずに済んだのに」

再び新庄先生が教室に戻っていらした。久しぶりに先生に会える私たちは浮き浮きしていたが、実は事件の真相を聞けると思っていた。先生はブラウスにプリーツスカートという、いつもと変わらない服装だった。
「長いことお休みして、ごめんなさい。出席をとります」と言い、出席をとり終わると
「算数のおさらいをします。教科書と帳面、筆箱を出してね」
教科書やノートを出す荒々しい音に私たちの失望感が現れていた。私は先生に駆け寄り、しがみつきたかった。先生がいなかった間、不安だったから。ところが先生から近寄りがたい雰囲気が感じられ、私の知らない人が立っている気がした。

出所:www.sofhys.com

あれから40年後、小学校の同窓会が開かれた。会場のあちこちに恩師を囲む人の輪ができた。新庄先生の輪から、一瞬、潮が引くように人が消え、先生と二人きりになれた私は例の疑問を口にした。
「私が2年生だった1960年、大変な目に会いましたね」
先生の明るい茶色の瞳が少し大きくなったように見えた。
「さなえちゃん、憶えているの?」
「はい、先生が教壇に戻られた日のことはよく憶えています。
 私はおかしな子どもで、先生が知らない人のような気がしました」
先生は、一拍間をおいてから言った。
「私ね、夫が亡くなった時、一度も泣かなかったの。ただの一回も。
 そしたらね、叔父が言ったの『お前は可愛くない女だ』って」
「そんな、あんまりです」
先生は薄く笑い、窓の外を見つめた。           

ひどく悲しいときには涙が出ないものだと聞いたことがある。先生は自分の気持ちに正直だったのかもしれない。だが、弔問客の前でも、新庄家の家長であるおじさんの前でも涙一つ落とさなかった先生は、彼らが思い描く「悲しみに暮れる女の姿」を裏切ったことだろう。

1960年は今より「〇〇らしい」「〇〇であるべき」という規範が強固だった。先生は、たった一人で自分を守るために鎧で身を固めたのだろうか。それが、私が知っている先生を別人にしたのか。
世の中は安保に揺れ、社会は変わろうとしていたが、女性がありのままの自分でいられる時代が来るのはまだ先のことだった。(※文中の氏名は仮名)
                                   (7期生 酒井早苗)     

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