日時:平成29年3月9日(木)13時~15時

場所:セントポールズ会館すずかけ

参加者:7名(内1名は会員外)

東西ドイツの変遷 ~ベルリンの壁をめぐって~          岩澤 延江

 1978年から3学期間過ごした西ベルリン。当時は壁の存在を少々不便だと感じていた程度でした。しかし1989年に国境が開かれ、東西ドイツの統一、ソ連の崩壊、と歴史の大転換を経て、遅ればせながらベルリンの壁の政治的意味と分断の事情に「そういう訳だったのか」と驚かせられました。そしてRSSCにはいってからは年齢的なものもあるのでしょうが、しきりに昔のことが思い出されるようになり、このたび第2次大戦終結から分断、統一、東西ドイツの発展の違いなどをまとめて、壁に囲まれたベルリンでの特殊な体験をお話した次第です。 

 戦後のドイツは戦勝国の分割管理により国全体が東西に分割され、さらに東ドイツの真ん中にある旧ドイツ帝国の首都ベルリンも東西に分割されるという複雑な構造になりました。1947年には米ソの対立が深まり、1949年に2つの国家が成立、ソ連の計画経済の破綻や自由の束縛から西ベルリンへ逃げる東ドイツ住民が増え続けました。座視できなくなった東ドイツはソ連を後ろ盾に、ある日何の前触れもなくすべての交通網を遮断して西ベルリンを陸の孤島とし、またある日突如として鉄条網を張り巡らして28年間の壁による分断が始まったのです。(歴史は一夜にして変えられる事実に、日本人も心の準備が必要かと思います)

 米ソ間の「鉄のカーテン」になぞらえられたベルリンの壁はドイツ人が造ったものではなく、統一が40年も遅れたのも、そもそもドイツ民主共和国(東)とドイツ連邦共和国(西)が成立したのも、米ソの力関係と、ドイツの国力復活を恐れる周辺国の思惑があったからなのです。西ベルリンに住んでいる限りは西ドイツや西側諸国の庇護のもと平和な日常生活ができましたが、それは事情を知らない能天気な外国人学生の感覚だったのでしょう。しかし、壁の向こうの社会主義国に一歩足を踏み入れると、経済力や人々の表情の違いが如実に感じられました。

 統一後は旧東西住民とも予想外の苦労を強いられました。大きな経済的負担に耐えた西ドイツがその後も難民を積極的に受け入れる姿に、ドイツという国の懐の深さを感じます。基本法第1条に「人間の尊厳は不可欠であり、保護はあらゆる国家権力の義務である」と謳われているのです。ドイツでは現在も学費は無料ですが、当時の私も税金を納めていないにもかかわらずドイツ人と同等に受け入れてくれました。私のドイツに対する感謝と尊敬の念はいまだに変わることはありません。